静岡の絶景スポット

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「静岡(しずおか)県」は太平洋側に面した中部地方の県。県庁所在地は静岡市。東京からは東海道新幹線や東名道が通じておりアクセスはよい。東西に長く、温暖な伊豆半島から山がちな北部まで自然環境は多様。

「富士山」のお膝元で、周辺には「三保松原」や「香嵐渓」、「朝霧高原」に代表される多くの名所がある。コバルトブルーの湖が美しい「夢の吊橋」や湖の上の秘境駅「奥大井湖上駅」など絶景スポットとして知られている。

1,富士山

富士山は静岡県と山梨県にまたがる日本一高い山。標高3776。周囲に他の山がない独立峰であり、その優美な山容により古くから信仰の対象として崇められ、海外でも日本の象徴としてよく知られている。2013年には世界文化遺産への登録を果たした。

2,夢の吊橋

夢の吊橋は静岡県の景勝地、寸又峡にある吊り橋。鮮やかなエメラルドグリーンの湖水が神秘的な大間ダム湖に架けられており、周囲の渓谷とあいまってすばらしい景観をつくり出している。

橋は長さ90m、高さ8m、一度に10人しか渡ることが出来ない。板のすき間から下の湖面が見え、しかも揺れるということもあってスリル満点。吊り橋の真ん中で恋の成就を願うと、その願いが叶うといわれていて、カップルの名所ともなっている。

世界的旅行口コミサイトTripadvisorの「死ぬまでに渡りたい世界の徒歩吊り橋10選」で10位に選ばれた。

3,奥大井湖上駅

奥大井湖上駅は静岡県の中央部、川根本町にある大井川鐵道井川線の駅。1日10本ほどトロッコ列車が走る。

長島ダムのダム湖に突き出た半島状の場所にあり、両側を「奥大井レインボーブリッジ」によって結ばれているため、まるで湖上に浮いているように見える。

その光景はテレビ番組の「日本の不思議な駅」第1位に選ばれたことも。橋は徒歩での通行が可能で、自然の中で赤い橋と緑色の湖を満喫しながらの散歩も楽しめる。

4,中田島砂丘

地元にある、日本三大砂丘のひとつ・中田島砂丘へ、絶景を探しに毎年5月には浜松祭りの凧揚げ会場となる中田島砂丘。

中田島砂丘(なかたじまさきゅう)は、静岡県の浜松市の南部の天竜川以西に位置し、南北約0.6km、東西約4kmに渡って広がる砂丘で遠州浜(遠州大砂丘)の一部です

5,白糸の滝

白糸の滝は、富士山を東にのぞむ静岡県富士宮市の上井出にある滝。古くから名勝として知られ、源頼朝が立ち寄ったという言い伝えもある。

世界文化遺産「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」の構成資産にも登録された。文字通り無数の白糸のような滝が幅150m以上にわたって岩盤から流れ出ており、幽玄な姿を見せる。

徒歩5分ほどの場所には対象的に豪快な音をひびかせる「音止めの滝」があり、こちらもあわせて訪れたい。

6,公益財団法人冨士霊園

公益財団法人冨士霊園(ふじれいえん、英語: Fuji Cemetery)は、静岡県駿東郡小山町にある公園墓地(霊園)、無縁仏となったもののための共同納骨堂の設置運営、供養を行っている公益法人。

元厚生労働省健康局所管の財団法人。広大な園地には季節の花が植えられ、特に桜の名所として有名で、「日本さくら名所100選」に選ばれている。桜のトンネル、ここの歩道から見る桜は緑に映えて綺麗です。

7,堂ヶ島「青の洞くつ」

堂ヶ島は伊豆半島の西側、静岡県西伊豆町にある景勝地。一帯は国指定名勝「伊豆西南海岸」に指定されている。リアス式海岸の複雑な地形がうむ景観美がすばらしく、「伊豆の松島」と呼ばれている。

干潮時に地続きになる三四郎島、天然記念物に指定されている天窓洞などの見所がある。天窓洞は「青の洞くつ」とも称され、自然の天窓を通して日が差し込み、海面が青く輝く姿が幻想的。

変化に富んだ海岸線と奇岩を背景に沈む夕陽の美しさも格別で、西伊豆町は「夕陽日本一」を宣言している。

8,河津町(河津桜発祥の地)

河津町は静岡県の伊豆半島南東部にある町。早咲きの桜「河津桜」発祥の地として名高い。河津川沿いを中心としておよそ8000本の桜が鮮やかなピンクに咲き誇る「河津桜まつり」は、春の訪れを告げる風物詩。

毎年約80万人が訪れる人気イベントとなっている。初春の朝、満開の河津桜のトンネルを散歩するカップル。

9,日本平ホテル

日本平ホテルは静岡県静岡市清水区にあるホテル。正面に霊峰富士を望み、「風景美術館」のコンセプトのもと、景色がまるで絵画に見えるように設計されている。夜景の清水の町と富士、チャペルやラウンジ、客室などいたるところで富士山鑑賞ができる。

10,白浜大浜海岸

白浜大浜海岸は静岡県下田市にある海水浴場。長さ700m以上にわたって緩やかに弧を描き広がる広大なビーチで、その規模は伊豆でも最大級。

ホワイトサンドと紺碧の海とのコントラストは南国のような美しさ。水の透明度はすばらしい。白浜の朝日です。

 

文福茶釜のある吐月峰 柴屋寺

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柴屋寺は、1504年に京都の銀閣寺を模して建立された臨済宗妙心寺派の寺院です。

「ぶんぶく茶釜物語」は、群馬県館林市にある茂林寺の「分福茶釜」伝説が有名ですが、ここ柴屋寺の「文福茶釜」は静岡市伝説です。
漢字体は、茂林寺⇒「分福茶釜」、柴屋寺⇒「文福茶釜」と異なります。

柴屋寺の正式名称は、「天柱山吐月峰柴屋寺」で国指定の名勝及史蹟庭園です。

柴屋寺は、今川家・第六代当主の義忠公と第七代当主の氏親公に仕えた連歌師の宗長が草庵を結び余生を送ったところです。

室町時代から戦国時代にかけて、応仁の乱の戦火を逃れて京から多くの公家や文化人が駿府へ居を移し、「東(国)の京」または「東(国)の都」とも呼ばれ「京文化」が栄えました。後の「東京」のいわれではないのか…?

駿府(現静岡市)は、今川氏が統治していましたが、当時は都から京文化が導入され、風雅な茶道、華道、連歌など今川文化が流行りました。

この柴屋寺には、足利義政公がお茶を点てる際に用いた「文福茶釜」が所蔵されています。

この寺の所蔵する主な寺宝。(文化財に指定)
1.後水尾天皇御親筆の短冊
2.芦屋釜…文福茶釜(足利義政公より賜るもの)
3.柿本人麻呂像および一節切の笛(頓阿法師作)
4.一休さんが托鉢の際、使用した鉄釜
5.今川氏親公の真筆扁額
6.宗長法師の真筆

 

白洲賀宿

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本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠27軒の小さな宿場町であった。宝永4年(1707)の大津波で高台に移るまで、現在より東の海岸に近いところにあった。

白須賀宿本陣跡

本陣とは、江戸時代、公家・大名・幕府役人などが旅の途中に宿泊・休憩した施設である。宿場の中央に大きな間口を占め、門・玄関・上段の間を備えた立派な建物であった。

本陣職は代々世襲して本陣経営を続け、名字帯刀を許されているものもあった。この地は、本陣大村庄左衛門宅跡で、元治元年(1864年)の記録には、建坪183坪、畳敷231畳、板敷51畳とある。

白須賀宿脇本陣跡

現在は脇本陣と書かれた石柱があるのみ。

甕麿址・諸平生誕地(みかまろあと・もろひらせいたんち)

夏目甕麿は、通称嘉右エ門、萩園と号した。
酒造を業とした傍ら国学を内山真龍に学び、後、本居宣長の門に名を連ねた。
賀茂真淵の「万葉集遠江歌考」「鈴の屋大人都日記」等を上梓出版して国学の普及につとめた。著書に「吉野の若菜家集」等数篇がある。文政五年(1822年没)。
加納諸平は甕麿の長子、柿園と号した。若くして紀州和歌山の本居大平の許に寄寓乞われて加納家の養子となる。後、紀州候に召されて国学を講じ国学所総裁となる。
諸平には「当代類題和歌選集」「鰒玉集」七巻の外に「柿園詠草」「柿園詠草拾遺」等の家集を始め数多くの著作がある。

白須賀宿の火防(しらすかしゅくのかぼう)

東海道白須賀の宿は、津波の難を恐れ、宝永五年(1708年)潮見坂の下から、坂上へ宿替えをした。それまでの坂下の白須賀を、元宿と呼ぶのはこの為である。
宿場の移転以来、津波の心配は無くなったが、今度は冬期に西風が強く、たびたび火災が発生し、しかも大火となることが多かった。これは当時、殆どの家の屋根が、わら葺きであったことにもよる。

そこでこの火事をくい止める為に、生活の知恵として工夫せられたのが火防で、人々は「火除け」とか「火除け地」とか呼んで大切にしていた。
火防の広さは、間口二間(3.6M)奥行四間半(8.2M)で、常緑樹で火に強い槙が十本くらい植えられ、元は宿内に三地点・六場所の火防があった。

笠子神社(かさごじんじゃ)

太古より笠子大明神と称し高師山の麓白菅帯の港の西岸に鎮座していましたが、高波や津波などにあって二度移転をし、現在地に移ったのは元和二年(1616)のことです。

関所が設けられた新居宿

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新居宿は、本陣3軒、脇本陣0軒、旅籠26軒であった。慶長5年(1600年)の関ヶ原合戦後に新居関所が設けられ、翌年に新居宿が設置された。現在の地に移るまでに、天災で2度移転している。

紀伊国屋(きのくにや)

新居宿旅籠紀伊国屋は、徳川御三家の一つ紀州藩の御用宿を務めた縁により正徳6年(享保元年1716)紀伊国屋の屋号を掲げ、以後宿内最大の旅籠として営業を続けた。明治7年(1874)に大火により焼失、直後に建て替えられ明治30年まで旅館業を営んだ。 建物は江戸後期の旅籠の様式を随所に残している。

飯田本陣跡

飯田本陣は、天保年間の記録によると建坪百九十六坪で、門構え玄関を備えていた。 飯田本陣には小浜、桑名、岸和田播など約七十家が利用した。 明治元年(1868年)の天皇行幸の際に行在所となり、同年の還幸、翌二年の再幸、明治十一年(1878年)の巡幸の際にも利用された。その行在所の建物は明治十八年(1885年)、奥山方広寺に移築された。

疋田本陣跡(ひきだほんじんあと)

飯田本陣の南隣りにあった。 天保年間の記録によると、建坪百九十三坪で門構え、玄関を備えていた。 八郎兵衛本陣には吉田藩のほか御三家など約百二十家が利用した。 庄屋、年寄役なども務めた。

本果寺(ほんがじ)

もとは真言宗のお寺であったが、元中七年(1390年)本興寺の末寺となり、法華宗に改宗した。 宝永四年(1707年)の大津波により大破、惣町移転となり、翌年現在の地に移転した。 徳川家康をはじめ代々の将軍より朱印を賜り、有栖川宮御祈願所を拝命し、位牌を安置。松山新田の開拓者野口休可の墓や無縁供養のめぐみ観音を祀る。 俳匠大野林火の句碑があり、「お経に化けた鯛」の伝話もある。平成十二年一字一石経の経塚に、「あけぼのの鐘」が建立された。

神宮禅寺(じんぐうぜんじ)

式内は景行天皇十九年(約1900年前)の創立と伝えられる古社である。当初は新居宿の総氏神、猪鼻湖神社として猿田彦大神を奉斎し、浜辺に鎮座していたが、数度の天災により宝永五年(1708年)現在地に遷座となる。 現神社名は井口嘉末なる者が信州より移り住み、天正年間(1590年頃)諏訪大明神の御分霊を合祀したことから、いつしか諏訪神社と称するようになった。

棒鼻跡(ぼうばなあと)

ここは新居宿の西境で、一度に大勢の人が通行できないように土塁が突き出て枡形をなしていた。 棒鼻とは、駕篭の棒先の意味があるが、大名行列が宿場へ入るとき、この場所で先頭(棒先)を整えたので、棒鼻と呼ぶようになったともいわれている。

 

城下町であった浜松宿

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浜松宿は浜松城の城下町であったことから、本陣6軒、旅籠94軒と東海道最大規模の宿場であった。近代浜松は東京、大阪の中間にあって、工業都市として発展したが、そのため戦時中、激しい空襲に会い、徹底的に破壊されて、昔の姿はほとんど留めていません。

浜松宿は徳川家康が築城した浜松城の城下町であり、東海道最大規模の宿として栄えた。歴史としては古く、昔は「引馬宿」ともいい、十六夜日記(1280年代)に見えている。城は家康以後も水野忠邦をはじめ老中などに出世する者を出し、出世城と言われた。

浜松の名の起こりについては、永享四年(1432)、「足利義教公」がこの地で酒宴を催した時、「はま松の音はざざんざ」と歌を詠まれたのが始まりだという。

佐藤本陣跡

大名・公家・幕府役人など貴人の宿泊のために宿場に置かれた旅館を本陣と言う。浜松には本陣が6ヶ所あった。建坪はおよそ225坪。

杉浦本陣跡

大名・公家・幕府役人など貴人の宿泊のために宿場に置かれた旅館を本陣と言う。浜松の本陣6ヶ所のうちで最も古い。建坪がおよそ272坪(約900m2)あった。

川口本陣跡

大名・公家・幕府役人など貴人の宿泊のために宿場に置かれた旅館を本陣と言う。浜松の本陣6ヶ所のうちで最も新しい。建坪がおよそ163坪(約540m2)あった。

五社神社(諏訪神社)

諏訪神社はかなり規模の大きい神社です。家康が2代将軍秀忠の誕生を祈願し、浜松城内にあった五社神社を産神として、現在地に遷座した。元々は太玉命を祀る神社であったものに、春日大社の祭神四柱を勧請して、現在の五柱となったものと見られている。

子育て地蔵

「長年子供に恵まれなかった町民が、願をかけたところ子供が授かったといわれる地蔵尊です。戦前は、今はない地蔵堂に集まり7月24日に地蔵盆を盛大に催していました。」 コンクリート製の台の上に、屋根を付けた小さな小屋の中に、所せましと、大小様々な地蔵尊が20体近く安置されている。何時来ても香華の絶えることがない。

二つ御堂

奥州平泉の藤原秀衡が京都で大病と聞いた愛妾が京へ上る途中、ここで秀衡死去の誤報を聞き、その菩提を弔うために阿弥陀堂を建立した。一方、京の秀衡は病が回復し、帰国の途中ここでその話を聞き、愛妾への感謝を込めて向側の薬師堂を建てたと言われています。

音羽の松

「六所神社」入口に「音羽の松」というのがある。浜松の名前の起源となった、「ざざんざ松」の弟分に当たる巨木だったという。現在は残念ながら、すでに枯れてしまい、新しい松に植え変えられ、「記念碑」が建てられているだけです。

秋葉常夜燈

舞阪には往還沿いに3基の常夜燈がある。舞坂宿では、文化6年(1809年)元日、宿場の大半を焼き尽くす大きな火事に見舞われたことから、これをきっかけに火防(ひぶせ)の秋葉信仰が広がり、常夜燈を建て、秋葉講を組織して火の恵みに感謝するとともに、火の用心を誓いあった。

常夜燈の竿石の四面には、両皇太神宮、秋葉大権現、津島牛頭天皇、建立年月が刻まれている。新町の常夜燈は、文化12年(1815年)正月に建立されたもので、灯りをともして悪霊の侵入を防ぎ地域を鎮めるとともに、闇夜を照らす道しるべとして守られてきた。月詣りやのぼり立ては、今も地域の人たちに受け継がれている。

稲荷神社


鳥居は両部形式で、朱色に塗られ、四本の稚児柱と呼ばれる控柱で支えられている。うしろの稲荷鳥居は石造りで文化十三年丙子年(1816)十一月吉日 遠州屋傳兵衛奉献 江戸小船町傳次郎と刻まれている。

史跡引佐山大悲院観音堂聖跡

昔、稲荷神社の先、右側に、馬郡観音堂が建っていて、安置されていた観音像は定朝作と伝わる。戦後に廃堂になり、観音像は近くの如意寺に移されているという。

春日神社

奈良の春日神社から勧請されたものらしく、真っ赤な社殿である。春日神社境内には普通の神社にあるような「狛犬」はなく、春 日神の使いである、雌雄二頭の「白鹿」が立っている。