鉤の手に折れ曲がる掛川宿

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掛川宿は、本陣2軒、脇本陣0軒、旅籠30軒で、掛川城の城下町として発展し、秋葉詣での参詣客で賑わっていたのだろう。

七曲り

七曲は、容易に敵を進入させないための構造だと考えられ、七曲りの終点に、城下に入ってくる人物や物を取り締まるための木戸と番所があった。番所には、捕縛のための三道具(刺股・突棒・袖がらみ)や防火用の水溜め桶などが備えられていた。

新町は、山内一豊が整備した城下町の東に発達した町並みで、元和6年(1620年)町として認められた。

掛川城

室町時代、駿河の守護大名今川氏が遠江進出を狙い、家臣の朝比奈氏に命じて築城させたのが掛川城のはじまり。戦国時代には、山内一豊が城主として10年間在城。働き盛りの一豊は大規模な城郭修築を行い、天守閣、大手門を建設すると共に、城下町の整備や大井川の治水工事などに注力した。

掛川は、一豊の人生にとって大きな意味をもつ土地であり、高知城は掛川城を模して作られたとも伝えらている。現在の掛川城は、平成6年4月に「東海の名城」と呼ばれた美しさそのままに、日本初の本格木造天守閣として復元されたものです。

円満寺(えんまんじ)

掛川城内にあった円満寺は、一豊による掛川城の大改修の一環である堀総普請のために現在位置へ移された。この寺の境内に現在も残っている蕗の門は、掛川城の内堀のほとりに建てられていた四足門で、廃城後に円満寺が買い受けて移築したものだそうです。

東光寺・秋葉常夜燈

成田山東光寺の山門前の碑には「成田山遥拝所」と刻まれている。十九首塚に祀られるとされる将門の本拠地は千葉県成田山であるためか、十九首塚隣にある東光寺は明治10年に本山の心勝寺より不動明王の霊を移して祭り、大正時代に遠州で唯一の遙拝所として認可された。山門横には秋葉常夜燈がある。

十九首塚公園(じゅうくしゅつかこうえん)

天慶3年(940年)の天慶の乱の時に、藤原秀郷の一行に滅ぼされた平将門と18人の武将の首級が埋葬されていると言われている。19基あった首塚も時代の流れと共に年々数が少なくなり、平将門のものといわれるおおきな塚1基だけが残された。十九首塚史跡公園に19基の首塚が完成した。

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