「蒲原夜之雪」の舞台 蒲原宿

スポンサーリンク
Pocket

 

広重が描いた「蒲原夜之雪」の舞台だが、実際には温暖で雪はほとんど降らない。となりの由比宿とは町続きになっていたと云われる。

蒲原宿東木戸

江戸時代の宿場の入り口には、見附や木戸と呼ばれるものがあった。蒲原宿の入り口には木戸が設置されており、東の入り口のことを「東木戸」と呼んでいた。

渡邉家土蔵

渡邉家は、江戸時代末期に問屋職を代々務めた旧家で、材木を商っていたことから「木屋(きや)」という商号で呼ばれていました。「渡邉家土蔵」は、四隅の柱が上にいくにつれて少しずつ狭まる「四方具」という耐震性に優れた技法で建築されている。

三階建ての土蔵はあまり例がなく、棟札から天保9年(1838年)2月21日に上棟したことがわかり、町内最古の土蔵であると云われている。土蔵の中には、江戸時代の貴重な資料が多く保管されていて、町指定有形文化財に指定である。

竜雲寺

承応2年(1653年)、高松藩の槍の名人、大久保甚太夫らが江戸へ行く途中、薩摩藩の大名行列と出会い、槍の穂先が相手の槍と触れたことで口論となり、茄子屋で薩摩藩の大名行列と乱闘が始まり、七十人近くを倒した。

しかし、最後に追っ手に見つかり殺されてしまった。当時の竜雲寺住職が、墓地に葬り供養した。甚太夫の槍の穂先は、現在寺宝として保存されている。

東漸寺

元弘元年(1331年)開祖の日蓮宗の古刹。元は西より御殿屋敷付近にあったが、家光上洛時増改築のため現在地に移転した。本陣に近いことから混雑時は臨時の宿舎となった。

佐藤家

元「佐野屋」という商家で、壁は塗り壁で町家に多く見られる造りで、「塗り家造り」という。

「塗り家造り」は「土蔵造り」に比べて壁の厚みは少ないが、防火効果が大きく、昔から贅沢普請ともいわれている。もともとは城郭などに用いられた技術であり、一般には江戸時代末期以降に広まったと考えられている。なまこ壁の白と黒のコントラストが装飾的です。

鈴木家

江戸時代「和泉屋(いずみや)」という上旅籠だった。天保年間(1830~44年)の建物で、安政の大地震でも倒壊を免れた。

今に残る二階の櫛形の手すりや看板掛け、柱から突き出た腕木などに江戸時代の上旅籠の面影を見ることができる。弘化2年(1845年)の「蒲原宿商売調帳」に、「和泉屋間口間数6.1」とあり、現在は鈴木家とお休み処の2軒に仕切られている。

平岡本陣跡

黒々とした塀と、屋根瓦の「本」の文字が、歴史を感じさせる。現建物は大正年間の建築。大規模な和洋折衷のお宅です。裏庭には、殿様の駕籠を置いた石があります。

宿場時代の蒲原には、この他、東本陣(多芸本陣)があり、さらに脇本陣が3軒あったとのこと。大規模な大名行列のときは、一般住宅にまで宿泊したという。

旧五十嵐歯科医院

東海道蒲原宿の街道沿いにたたずむ旧五十嵐邸は、大正期以前に町家建築として建てられました。 大正3年(1914)に、当時の当主故五十嵐準氏が歯科医院を開業するにあたり、町家を洋風に改築。
その後昭和15年ごろまでに、西側・東側部分をそれぞれ増築し、現在の形になりました。平成12年には、旧来の町家の特徴を残しながら外観が洋風、というユニークな造形が評価され、国の有形登録文化財となりました。
スポンサーリンク

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA


コメントは承認待ちです。表示されるまでしばらく時間がかかるかもしれません。