二俣城

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二俣城跡

二俣城の歴史

二俣城は武田信玄・勝頼親子と徳川家康がこの城を巡って激しい攻防を繰り広げたことでも知られる城です。遠江国豊田郡二俣(現在の静岡県浜松市天竜区二俣町二俣)にあった日本の城です。

天竜川と二俣川に挟まれた天嶮に恵まれた中世城郭としても名高く、家康の嫡男である信康が悲劇の切腹をとげた城としても知られています。現在、城址には天守台・石垣・土塁などが残っています。

この二俣への築城は、戦国時代初頭、今川氏が拠点とするために城館を築いたのがその初めと云われています。その後今川氏は、永禄12年(1569年)、甲斐の武田信玄と三河の徳川家康の挟撃にあい滅亡しました。その後の攻防を経て、信玄から家康へと支配権が遷ることになります。

二俣城の戦い

二俣城の戦い

二俣城の戦い(ふたまたじょうのたたかい)は、元亀3年(1572年)10月から12月にかけて行われた武田信玄軍と徳川家康軍による遠江北部の二俣城攻防戦です。

元亀3年(1572年)10月3日、上洛を目指す武田信玄は、徳川家康の所領である遠江に侵攻した。

信玄は遠江における徳川方の諸城を東西に分断するため、腹心の馬場信春に一軍を預けて只来城を落とさせ、自らも2万余の軍勢を率いて天方城・一宮城・飯田城・格和城・向笠城などをわずか1日で全て落としました。

これにより、掛川城や高天神城は孤立し、家康方は浜松城にある城兵だけで武田軍と戦うことを余儀なくされたのです。その結果、10月14日に行われた一言坂の戦いで、家康は信玄の前に大敗を喫しました。

続いて信玄は、10月16日に二俣城を包囲した。二俣城は浜松城と掛川・高天神城のちょうど中間地点に位置する遠江の諸城の中でも特に重要な拠点でした。

武田軍が補給路を確保するためにも、徳川軍の連絡網を断ち切るためにも、この城は落としておく必要があったのです。

二俣城は天竜川と二俣川が合流する地点の丘陵上に築かれた城で、この川が文字通り天然の堀を成していた堅城でした。

城兵の数は1200人ほど。一方の武田軍は2万7000人の大軍でした。10月18日から武田軍の攻撃が開始されたが武田軍は二俣城を攻めあぐんだそうです。

武田軍、二俣城攻略

信玄は力攻めでは二俣城を落とすことは無理と判断し、井戸が無く、天竜川沿いの断崖に井楼を設けて釣瓶で水を汲み上げていた二俣城の特性に目をつけ、戦略を変更しました。

大量に作らせた筏を天竜川の上流から流させ、井楼の柱に激突させ破壊するという作戦を決行し見事に成功しました。信玄は水の手を絶った上で開城を迫ったそうです。

城代は信玄に降伏・開城して浜松城に落ちていった。こうして、二俣城は信玄の手に落ち、二俣城攻略は、武田氏と徳川氏の優劣を決定的なもとしました。

これにより、日和見を決め込んでいた飯尾氏・神尾氏・奥山氏・天野氏・貫名氏などの地侍のほとんどが信玄に従うことを表明したからです。

これにより信玄の次の標的は、家康の居城・浜松城となり、12月22日の三方ヶ原の戦いへと突入していくことになります。

悲劇の城『二俣城』

二俣城といえば、家康の長男・松平信康が若くして父に切腹させられた悲劇の地としても知られる。

天正7年(1579年)7月、家康の同盟者・織田信長に家康の正妻・築山御前と長男・信康が武田方に内通したとの報がもたらされた。この信憑性は非常に薄いものであったが、信長は家康にこの二人を処断するよう求めた。

家康は悩んだ末まず築山殿を殺害、さらに9月15日かねてから二俣城に幽閉させていた信康を切腹させた。このとき服部半蔵が介錯を務めたが、涙のあまり刀が振り下ろせなかったとの話が残っています。信康は時に享年21でした。

信康の遺体は二俣城から峰続きにある小松原長安院に葬られました。翌年には家康によって同院に廟と位牌堂が建立され、その後家康が詣でた際に寺に清涼な滝があるのを見て寺の名を清瀧寺と改めさせました。この寺・信康の墓ともに現存しています。

二俣城のその後は、慶長5年(1600年)に廃城となり、その後も城としての役割を果たすことはありませんでした。

明治29年(1896年)、日清戦争で戦死した地元有志を弔うことを目的で北曲輪跡に旭ヶ丘神社が建立され、日露戦争の戦死者なども合祀されました。

太平洋戦争後には城一帯は地元の公園として整備され、現在に至っている。

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