「出世城」と呼ばれる 浜松城

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所在地:静岡県浜松市中区元城町100-2
見学:大人(高校生以上)150円/小中学生は無料
アクセス:
<バス>JR浜松駅から遠鉄バスで「市役所前」バス停下車、徒歩約5分。

静岡県浜松市にあった平山城(ひらやまじろ)です。もともとは曳馬城(あるいは引馬城、引間城)と呼ばれていました。「野面積み」といわれる石組みによる石垣を持つ城として知られています。

この野面積みも天守閣のある本丸・二の丸・三の丸を一線に配した梯郭式の縄張りも、徳川家康によります。

築城者については今川貞相(徳川家康の正室瀬名姫の先祖)など諸説あり、築城時期も確定されていません。

室町時代に遠江(とおとうみ)の斯波氏と駿河の今川氏の抗争中、この一帯を領有していた斯波氏方の大河内貞綱が敗れ、今川氏親配下の飯尾氏がこの地に入部しました。

こうした経緯から、飯尾乗連(あるいは父の飯尾賢連)が1514年(永正11)に曳馬城主として入城したといわれています。

城主の飯尾氏はその後も今川家に仕えたが、今川義元が桶狭間で討ち死にした後、城主の飯尾連竜は今川氏真に反旗を翻しています。

連竜が和議の謀略で誘殺された後も飯尾氏の残党が城を守っていたが、1568年(永禄11)末に徳川家康によって攻略されました。

1570年(元亀1)、家康は武田信玄の侵攻に備えるために、本拠地を三河国の岡崎城から曳馬城へ移し、城を拡張整備しました。

このとき、曳馬という名前が「馬を引く」、つまり敗北につながることから浜松城と改名したと云われています。

家康はここで29歳の時から駿府城に入る45歳までの17年間を過ごした記録が残されています。

1573年(元亀3)、家康は浜松城を攻めずに素通りした武田信玄の軍勢を追撃して、逆に大敗北に帰しています(三方ヶ原の戦い)。

浜松城の拡張と改修は1582年(天正10)ごろに終わったが、1586年(天正14)には、本拠を浜松城から駿府城(静岡市)に移しました。

1590年(天正18)、豊臣秀吉により家康が関東に国替えになると、浜松城には秀吉家臣の堀尾吉晴が入城しました。

堀尾氏は1600年(慶長5)の関ヶ原の戦いで徳川方(東軍)として活躍しました。その功績から、出雲国松江に移封となり、以後、徳川頼宣を除き、譜代大名が城主となりました。江戸時代には城主が幕府重役に就任したことから「出世城」ともいわれました。

浜松城の城郭は、南北約500メートル、東西約450メートルにわたり、三方ヶ原台地の斜面に沿って西北に天守曲輪(てんしゅくるわ)、その東に本丸、二の丸、さらに東南に三の丸があります。

明治維新後、城郭は壊され荒廃していましたが、昭和33年(1958)、野面積み(のづらづみ)の旧天守台の上に新天守閣が再建されました。

天守閣は三層三階、地下一階の鉄筋コンクリート造り、最上階の展望台からは浜松市内が一望できます。内部は鎧や刀剣などを展示する郷土博物館になっています。

浜松駅から北西に約1キロメートル、古い石垣が残る徳川家康ゆかりの城・浜松城があります。浜松城は、家康の後に城主になった諸大名が入城後に幕府の要職に就いていることから「出世城」とも呼ばれます。

浜松城の石垣は野図積み(のづらづみ)という自然石を上下に組み合わせて積む方法で作られています。この石垣がいつの時代に築かれたについては正確な資料がないのでわかりませんが、二代城主堀尾吉晴の頃(1591年頃)と考えられています。

浜松城公園内に家康公の像があります。手にしているのは勝草と呼ばれた、めでたい歯朶(しだ)です。

浜松城跡は浜松城公園として整備され、日本庭園や中央芝生広場など市民の憩いの場として親しまれています。毎年春になると満開の桜が浜松城天守閣の周りに咲き誇ります。
 

 

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