「めぐみ観音」を祀る 本果寺

スポンサーリンク
Pocket

 

本果寺はもともと真言宗の寺でしたが、元中七年(1390)に法華宗に改宗し、本果寺に改めました。天正二年(1574)に徳川家康から徒役免除及び朱印四石五斗の判物を与えられました。

山門は黒塗りの医王門で、乗馬のまま通行できることから武家用門ともいわれています。明治元年(1868)、有栖川宮東下にあたり祈願寺とされました。

もとは真言宗のお寺であったが、元中7年(1390)本興寺の末寺となり、法華宗に改宗した。宝永4年(1707)の大津波により大破、惣町移転となり、翌年現在地に移転しました。

徳川家康(1542~1616在職1603~05)をはじめ代々の将軍より朱印を賜り、有栖川宮御祈願所を拝命し、位牌を安置しています。松山新田の開拓者野口休可の墓や無縁供養の「めぐみ観音」を祀っています。

「お経に化けた鯛」の伝説もあります。

お経に化けた鯛の伝説とは、室町時代、徳政一揆・土一揆などが起こり、民衆の生活は混乱と困窮をきわめていた頃の話。泉町の本果寺の開祖速誠院日才大徳は、日夜の布教の疲れと食糧難から、すっかり衰弱しついに病気で床に着くことなった。

永徳3年(1383)に鷲津の本興寺が真言宗から法華宗に改宗したが、新居の末寺は、なかなか改宗せず、法論往復七ヶ年の末、元中7年(1390)やっと納得して、法華宗本果寺にしたという根性の僧・日才大徳であった。

さすが日才大徳も疲労と病気には勝てず、消沈の日々を送っていた。気の毒に思った信者たちは、師匠の身に精をつけるため、白身の魚を食べさせるように小僧にすすめた。

しかし、生臭物を食べることが許されない寺のことゆえ、小僧は困ってしまったが、医者に見放され、日に日に衰えてゆく師匠を思うにつけ、背に腹は変えられぬと、信者の勧めに従うことにした。

心やすい信者に頼んで、小僧は鯛をわけてもらい風呂敷にくるんで持ち帰り、師匠に給仕するうち師匠の病状も快方に向かった。

ところが、意地悪な猟師がこれを聞きつけ、小僧を困らせてやろうとあとを追っかけ、こっそり庫裡の格子窓から覗いてみると、なんと風呂敷包みの中から出てきたものは、お経の本でした。

漁師は自分の目を疑い次の日仲間2~3人と一緒に後をつけて覗いてみたが、やはり風呂敷から出てきたものはお経の本である。

一緒に覗いた連中も顔を見合わせて首をひねった。たしかに鯛を包んだところを見たのに、目の前の小僧はお経の本をぺらぺらめくっているではないか。

法力によって小僧が鯛のコケラを落している姿は、意地悪漁師の目にはお経を読んでいる姿としか、見えなかったのでしょう。

仏の加護によって日才大徳の病は、すっかり元気になり、文安元年(1444)8月19日、高寿で没するまで布教に精を出したと伝わっています。

鯛に救われた日才大徳は、この恩に報いるため、海上安全・大漁祈願をしたと伝承されてます。今も大漁のお礼に奉納された石の洗水桶が残っており、その名残をとどめています。

平成12年(2000)「一字一石経」の経塚に、「あけぼののお鐘」が建立されました。

「野口休可の墓」

長い間、人の住んでいなかった松山村を明暦2年(1656)43才で開発し た野口甚九郎直勝(後に休可)は、名門佐々木高綱の家系の出身。慶長19年(1614)3月12日,遠州中泉で出生。掛塚で回船業で得た大金を持って、松山の開拓事業並びに舞阪港の築港に尽力し、延宝8年(1680)11月2日、67歳で松山村で没し、本果寺に葬る。

 

 

 

スポンサーリンク

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA