地震災難除けの神様として知られている 細江神社(気賀神社)

スポンサーリンク
Pocket

なぜ淡水湖であったはずの浜名湖が、塩水の混じった汽水湖になってしまったのだろうか。それは今を遡ること500年前、1498(明応7)年9月20日の大地震により、外海に注いでいた浜名川が埋まり、かわりにその東側に新しい口が開いて(今切口)海水が入ることになったからです。

この大地震により細江に押し寄せてきたのは津波だけではなかった。浜名湖の河口の橋本に祭られていた「角避比古神社」も流没したが、奇跡的にご神体は村櫛をへて、伊目の十三本松に津浪と共に漂着したのであった。

里人は憶岐大明神の地に仮宮を建ててこれを祭った。12年後再び地震による大津波のため、ご神体は気賀の赤池へご漂着された。気賀の里人はこの地に仮宮を建てて祭り、翌月19日に、八王子権現の境内(現在の場所)へ移し、牛頭天王社と称しお祭りすることとなったそうです。

以来、牛頭天王社(細江神社)を総氏神とするようになったのである。仮宮のあった所は今でも、東、西仮屋という町名として残っています。

後に新居の里人が角避比古神社のご神体が気賀の牛頭天王社として祭られているのを知り、太鼓を奉納し、祇園祭の日には船をひきつれて参拝することになりました。

新居浜で豊漁の折は、御礼参りと称して気賀に上陸後、街道に魚をまいて町民にふるまったこともあったと伝わっています。明治になると廃仏毀釈により仏教用語である「牛頭天王」の称号を廃止し「細江神社」と称し、現在に至っている。

由緒

社伝によれば、浜名湖が海とつながったとされる明応7年(1498年)の東海地震で、旧新居町にあった角避比古神社が流没しました。ご神体は津波で流され、現在の浜松市西区村櫛町を経て細江町気賀の伊目に漂着しました。

12年後に再び起きた地震津波により、現在の細江神社から300メートルほどの場所に流れ着いた。永正7年(1510年)、現在地に正式な社殿が造営され、「牛頭天王社」と称して気賀郷の氏神とされたと伝わっています。

この神話により細江神社は地震の厄除けの神社としての信仰があるそうです。旧浜名郡内に「牛頭天王社」は現存せず、以下の3つの神社が論社とされている。

 

細江神社

(浜松市北区細江町気賀996、旧郷社、祭神 建速素盞嗚尊・奇稻田姫尊)

湊神社

(湖西市新居町新居1788、祭神 須佐之男命)

諏訪神社

(湖西市新居町新居1379、旧郷社、祭神 建御名方命・八坂刀賣命)

ご神木

幼木の頃から2本揃って約500年の間、この細江町の歴史をみまもってきた老夫婦楠です。

境内社の藺草神社

ご由緒
宝永四年(1707年)、遠州地方で大地震があり、押し寄せた高潮のため浜名湖沿岸の田には塩が入り、稲は全滅の状態でした。困り果てた村の庄屋達は、当時の気賀の領主近藤縫殿助用隨公にその苦境を訴えました。領民を思う名君であった用隨公は、今後の稲作の事を領民と共に思い悩みました。

それからしばらくして、用隨公は大阪での会議で隣り合わせた豊後の国(現在の大分県)の領主松平市正に、領内の窮状を相談したところ、市正は、「ほう、それはお困りじゃな。では、余の領内の豊後の藺草を植えたら・・・・。

これは、塩に強いということでなと言い、国元から琉球藺の苗を取り寄せてくれました。大いに喜んだ用隨公はこれを持ち帰り領内の田に植えさせました。これが、浜名湖岸一帯 の名産物、琉球藺の始ま りです。

その後、琉球藺は周辺の各村に広まり藺草を使った畳表の製織は、 冬の農家の副業としてこの地方を潤しました。この藺草神社は、藺草をこの地方に初めて広めてくれた用隨公の徳をたたえて造られたものと伝わっています。

 

スポンサーリンク

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA