勝間田城跡

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勝間田城は、静岡県中部の牧之原台地に築かれた山城です。

勝間田氏は、平安末期から室町中期まで約340年間この地方を領有しました。史上に初めて登場するのは「保元物語」になります。

鎌倉時代になると、勝間田成長は幕府御家人となりました。その子孫の長清は鎌倉末期に「夫木和歌集」を編纂しています。

元弘の乱(1331)の際には、河内の赤坂城、千早城の攻防に一族が攻撃側と守備側に分かれて参戦していることが記録に見えます。室町時代に入ると、将軍の直属軍として応永の乱(1399)や永享の乱(1439)に活躍しました。

城址研究者によれば築城様式の相違から南北朝・室町初期に築かれた部分と戦国期に入ってから増築された部分とに分けられると云われてます。

城は、牧之原台地が川に浸食された地形を巧みに利用しています。尾根沿いに曲輪が設けられ、土塁や堀切は状態良く残っています。

初期に築かれた部分、つまり本曲輪とそれに付帯する曲輪群ですが、これは楠正成とともに勝間田直幸の立て籠もった千早城に規模の違いはあるものの類似していると云われています。

二の曲輪と三の曲輪はその後増築された部分で、武田氏によって築かれたとも、また勝間田氏が今川氏との戦闘に備えたものであるとも云われています。

応仁の乱(1467~1477)の勃発後、遠江に侵攻した今川義忠の攻撃を受けて、文明八年(1476)に勝間田城は落城し一族は離散しました。一説には御殿場市周辺に移り住んだと伝えられています。

勝間田城入口

①三の曲輪

②二の曲輪

二の曲輪はそれなりに広く、12棟の建物跡が確認されています。中世の山城には珍しい礎石を用いた跡もあり、倉庫に使用されていたと考えられています。

本曲輪は谷を挟んだ向こう側になります。

東尾根曲輪

本曲輪の東側にある出丸です。

③本曲輪

土塁に囲われた中に祠(ほこら)があります。二の曲輪より狭いです。

④南曲輪

南曲輪と腰曲輪の間の堀切

終着

 

詳しく紹介されてます。

 

 

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