韮山反射炉

スポンサーリンク
Pocket

 

世界遺産とは、1972年の第17回ユネスコ総会で採択された「世界の文化遺産及び自然遺産の保護に関する条約」(世界遺産条約)に基づき、世界遺産リストに登録された、遺跡、景観、自然など、人類が共有すべき「顕著な普遍的価値」を持つ物件のこと。3つの種類があり、有形の不動産が対象となります。

当時の人々は、オランダ語で書かれた書物を苦労して読み解き、技術的な試行錯誤を重ねた末に反射炉をつくりあげました。日本の近代化の第一歩を示す建物であり、実際に大砲を製造した反射炉としては、国内で唯一現存するものです。

反射炉とは、銑鉄(せんてつ・砂鉄や鉄鉱石から作った粗製の鉄で、不純物を多く含む)を溶かして優良な鉄を生産するための炉です。

銑鉄を溶かすためには千数百度の高温が必要ですが、反射炉の場合、溶解室の天井部分が浅いドーム形となっており、そこに炎や熱を反射させ、銑鉄に集中させることでその高温を実現する構造となっています。

そこから、反射炉という名称が与えられたのです。溶かした鉄は、鋳型に流し込んで大砲などに加工されました。近年の発掘調査では砲弾の鋳型などが発見されています。

炉体と煙突の部分を合わせた高さは約15.7m、実際に稼働した反射炉が残っているのは日本でここだけです。稼働当時、反射炉の周囲には各種の作業小屋や倉庫などが建ちならび、多くの職人が働いていました。

嘉永6年(1853)のペリー来航により、日本は外国の脅威にさらされました。江戸湾海防の実務責任者となった江川英龍(坦庵)に対して、幕府は江戸内湾への台場築造と平行して、反射炉の建造を命じます。

ペリー来航以前から反射炉の研究を続けていた英龍でしたが、蘭書の記述のみを頼りに反射炉を建造するのは、非常に困難な事業でした。

建設予定地は下田港に近い加茂郡本郷村(現下田市高馬)とされ、その年の12月には基礎工事が始められました。しかし、翌、安政元年3月末、下田に入港していたペリー艦隊の水兵が、反射炉建設地内に進入するという事件がおこりました。

そこで、急遽、反射炉建設地を韮山代官所に近い田方郡中村(現伊豆の国市中)に移転することになったのです。反射炉は、ヒュゲニン(huguenin)著『ライク王立鉄大砲鋳造所における鋳造法』という蘭書に基づいた。

連双式(溶解炉を二つ備える)ものを2基、直角に配置した形となっていました。四つの溶解炉を同時に稼動させ、大型砲を鋳造するための工夫です。

安政2年(1855)正月、江川英龍(坦庵)は韮山反射炉の竣工を見ることなく病死してしまいます。後を継いだ江川英敏は、蘭学の導入に積極的で、反射炉の建造も行っていた佐賀藩に応援を求め、技師の派遣を要請しました。

佐賀藩士の助力を得て、安政4年(1857)11月、韮山反射炉は着工から3年半の歳月をかけて、ようやく完成したのでした。韮山反射炉では、元治元年(1864)に幕府直営反射炉としての役割を終えるまでに、鉄製18ポンドカノン砲や青銅製野戦砲などの西洋式大砲が鋳造されました。
韮山反射炉といえば、レンガとそれを囲う鉄のフレームでできていますが、じつは建設当初は「白亜の塔」だったのです。建設当時は、レンガの上から漆喰(しっくい)がぬられていました。

鉄のフレームは昭和32年の大修理の際に、地震等から反射炉を守るために補強用で取り付けられたもので、平成元年、さらに丈夫なものに付け替えられ今に至っています。

韮山反射炉は実用としては、世界で唯一、ほぼ完全な形で保存されているのです。また、建設当時は、反射炉の周辺に、大砲を製造するための様々な施設が建ち並んでいました。ここには日本の最先端の技術が結集した一大工場があったのです。

幕末、1853(嘉永6)年ペリー艦隊が下田に来航した頃、「日本も近代的な軍事技術を取り入れなくては!」と江戸幕府が命じ、武士たちによってオランダから日本に取り入れられた技術をもって造られました。

「 熱を炉内で反射させ、鉄を溶かすから反射炉というんです!」と力説されるガイドさん。反射炉の中は、天井部分が浅いドーム形になっています。

そこに石炭などを燃料として発生させた熱と炎を反射させて一点集中させることで、高温を実現する構造だそうですなんと1300℃もの高熱で鉄を溶かし、型に流して大砲を造るのだそうです。

溶かす鉄は、銑鉄(せんてつ・鉄鉱石から直接製造した鉄)といわれ現在の東北・釜石から、静岡県沼津港へ船で運ばれてきたそうです。

15mもの反射炉の土台となっている石壁は、伊豆で採れる伊豆石(いずいし)でできてるそうです。伊豆石、伊豆半島ジオパークでもよく見かけます。

反射炉は、はじめは伊豆・下田で建設予定でしたが、工事中の反射炉敷地内にペリー艦隊の水兵が侵入する事件があり、急きょ、ここ韮山に建設地を移したそうです。

外観の煉瓦は、伊豆天城山産出の土で焼かれた焼き石で1700℃まで耐えられるとのこと。なんと、すべて合わせて約4トンの焼き石が使われています。

鉄を溶かした後には、鋳造した大砲を冷やさなければなりません。当時は、反射炉の周りに鉄を冷やすための鍛冶小屋や細工小屋、水車も併設され大砲生産の工程を担っていたそうです。。

今では敷地内に池があります。韮山反射炉は、そうした建物すべてを含めた製砲工場として「明治日本の産業革命遺産」としての重要な価値があります。

東京・お台場に設置されていました。大砲を置く「砲台場」だから、お台場と呼ばれたそうです。大砲は、海外圧力を牽制するのが目的だったので、当時、実戦には使用されませんでした。

幕府の命で反射炉を造るのに、当時の武士たちは3時間くらいの睡眠で急ピッチで建設したそうです。幕末武士たちが、蘭学を研究し、国の威信をかけて造った韮山反射炉「これぞ、日本のモノづくりの原点!」とガイドさんの力説、印象的でした。

韮山反射炉前に立ってる武士の像江川英龍(えがわひでたつ)正式名:江川太郎左衛門英龍。この方が、韮山反射炉を造りました。実は、日本で初めてパンを焼いた日本人「パン祖」でもあったんです。

パンは当時、保存食(兵糧)として焼かれたそうです。それを記念して毎年「パン祖のまつり」というパンのお祭りも、ここ韮山でひらかれています。江戸時代からの味を完全再現した復刻パンが売られてます。。

反射炉は、ここ韮山の他に山口県萩市にも試験炉が残っているそうです。、実際に稼働した反射炉として世界で唯一現存しているのはこの伊豆・韮山反射炉だけ です。
韮山反射炉 詳細データ

住所

静岡県伊豆の国市中字鳴滝入268
営業時間

9:00~16:30

料金

大人100円/小・中学生50円

障害のある方:無料
(1人に付き介添え2人まで無料)

ガイド料

無料

定休日

年末年始(12月31日~1月1日まで)
駐車場

あり
アクセス

車:伊東マリンタウンより車で約40分

電車:伊豆箱根鉄道「伊豆長岡駅」から徒歩15分程度

無料シャトルバスあり




スポンサーリンク

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA


コメントは承認待ちです。表示されるまでしばらく時間がかかるかもしれません。