西郷隆盛・山岡鉄舟会見の地

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江戸無血開城というと西郷隆盛と勝海舟の会見が有名ですが、江戸無血開城の5日前に、西郷隆盛と幕臣・山岡鉄太郎(のちの山岡鉄舟)の会見が、ここ駿府で行われました。

山岡鉄太郎(のちの山岡鉄舟)

鳥羽・伏見の戦いで勝利した新政府軍は、有栖川宮熾仁親王(、皇女・和宮の元婚約者)を大総督として江戸へ向けて進軍を開始しました。

有栖川宮熾仁親王

進路は東海道・東山道・北陸道の三道で東海道先鋒総督府参謀は西郷隆盛(吉之助)、東山道先鋒総督府参謀は乾退助(のちの板垣退助)です。

西郷隆盛(吉之助)

乾退助(のちの板垣退助)

1868年(慶応4年)2月15日、有栖川宮熾仁親王は東征に際して、明治天皇から錦旗と節刀を授けられ京都を出発しました。

1868年(慶応4年)3月5日、有栖川宮熾仁親王が駿府城に入城しました。参謀・西郷隆盛は伝馬町の松崎屋源兵衛の旅籠を宿所とした。

駿府城

1868年(慶応4年)3月9日、旧幕府精鋭隊頭・山岡鉄舟(鉄太郎)は、西郷のもとを訪れ会見しました。

徳川慶喜から全権を委ねられた勝海舟は、高橋精三(泥舟)を使者にしようとしたが、慶喜警護から離れることができなかった。そこで、鉄舟に白羽の矢が立ったという経緯がありました。

勝海舟

この時、山岡鉄舟(鉄太郎)は刀がないほど困窮していたそうですが、親友・関口艮輔に大小を借りて官軍の陣営に向かった。

官軍が警備する中を「朝敵徳川慶喜家来、山岡鉄太郎まかり通る」と大音声で堂々と歩行していったという。

山岡は勝海舟から託されていた手紙を西郷に渡し、上野寛永寺に謹慎していた徳川慶喜の赦免と江戸総攻撃の回避を懇願しました。

徳川慶喜

大きな目印は江川町交差点にある「ペガサート」。「西郷隆盛・山岡鉄舟会見の碑」はペガサートの前にあります。バス停留所は「新静岡伝馬町」です。

 

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