徳川家康が弓の稽古に励んだ 宗源院(そうげんいん)

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所在地:静岡県浜松市中区蜆塚1丁目20-1
見学:無料
アクセス:
<バス>JR浜松駅から遠鉄バス「広沢 医療センター」行き「広沢小学校」バス停下車、徒歩5分。

静岡県浜松市の中区にある宗源院(そうげんいん)は、宝蔵山(ほうぞうさん)と号する曹洞宗の寺です。十五世紀に在天弘雲が開創、普済寺十三派の在天派に属します。本尊は虚空蔵菩薩、釈迦牟尼佛、普賢菩薩の三尊です。

山号を宝蔵山(ほうぞうさん)といい、西来院と同様に曹洞宗普済寺十三派の在天派に属し、華蔵義曇(けぞうぎどん)の法弟在天弘雲和尚が応永23年(1416年)に開創しました。

室町時代後期には、今川氏の庇護をうけ、義元自身が開基としての役割を果たし、堂塔伽藍の再建を行っています。

この寺には今川義元と氏真の判物残されており、この古文書は、浜松市の文化財に指定されています。

閑静な山内には、三方原合戦の際、家康の身代わりとして戦死した成瀬藤蔵正義、旗手として討死した外山小作正重、遠藤右近の墓があります。

また、浜松城主松平伊豆守信祝(のぶとき)が娘多世姫(享年18歳)のために建てたという墓があります。他にも、源太夫堀を構築した小笠原源太夫の千代子夫人の墓もあります。

また、徳川家康が在城した当時寺の東南一帯に的場があり、家康がここで弓の稽古に励んだといわれています。

寺の東南一帯には的場があり、徳川家康が在城当時ここで弓の稽古に励んだといわれます。

宗源院は今川氏の庇護をうけ、今川義元・氏真父子の判物が現存します。この古文書は浜松市の文化財に指定されています。

三方ケ原の戦い

1572(元亀3)年に三方原で起こった、武田信玄と徳川家康の戦い。結果は家康の惨敗しました。

同年、12月22日武田信玄は神増付近で天竜川本流を渡り、秋葉街道に出て、有玉から三方原台地に上がり追分に出て、祝田(細江町)の坂で休止しました。

対する家康軍は12月22日に信長の援軍を含めて浜松城を出発して、午後4時過ぎに家康軍が攻撃を開始しました。武田信玄軍約2万です。家康軍は約1万の戦いででしたが、結果は家康軍が敗走しました。

家康の家臣 戦死者

・成瀬藤蔵正義は宗源院(中区蜆塚一丁目)にあります。
・鳥居四郎左衛門忠広は妻が菩提を弔うために建てた寺が中区紺屋町にある蓮華寺です。
・夏目正吉の碑は犀ヶ崖付近にあります。
・信長の援軍の平手汎秀(ひらてひろひで)は、今切に向かう途中、東伊場(現:中区東伊場町)で戦死しました。ここには平手監物の墓があります。

浜松出世太鼓と酒井の太鼓

三方ケ原合戦の際に、徳川勢の時の太鼓の音に武田勢が驚いて兵を引き上げた、という故事があります。そこから浜松出世太鼓が造られ、浜松まつり会館に展示されています。

また、三方ケ原の戦いで家康が浜松城に逃げ帰った際、家臣である酒井忠正が勢いよく太鼓を打ち鳴らしました。

この迫力ある音と、かがり火と、城門を開け放ったことから、武田軍はなにか計略があるものと思い、退陣したと伝えられてます。

この太鼓は酒井の太鼓と呼ばれ、浜松城にありましたが、明治維新の際に現在の磐田市見付の人たちの手に渡り、現在は磐田市見付の旧見付学校に保管されています。

 

 

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