正雪紺屋(しょうせつこうや)

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由比本陣公園の向かいにある正雪紺屋です。正雪紺屋は由井正雪の生家と伝わる江戸時代初期から四百年続いている紺屋(染物屋)です。

戸を開けると左手には、土間に埋められている四つ一組の藍甕(かめ)が四列、職能神の愛染明王を祭った神棚、壁には色々な染物道具、火事や水害など万一の場合、お客さまから預かった大切な品物をまっさきに運び出す用心篭が天井に吊られています。

この藍甕や道具は今では使われていないが、昔のままの道具や仕事場が残されていて貴重なものである。現在でも染物の販売を行っております。

正雪紺屋は慶安事件の由比正雪(1605~51)の生家といわれ、今でも裏庭の祠(ほこら)には、正雪を祭ったといわれる五輪塔があります。

由比の紺屋の子として生まれた正雪は、幼いころより才能があふれていて、後に軍学塾「張孔堂」を開き評判を得たそうです。

 

慶安4年「由比正雪の乱」とも言われる「慶安の変」を起こし、失敗におわった正雪は、「駿府(すんぷ・静岡市)」にて自害しました。

由井正雪は1651年の慶安の役の首謀者です。正雪は17才で江戸の親類の家に奉公にでます。そのかたわら、楠正辰の下で軍学を学びます。

正雪は由井正雪と呼ばれますが、実際には楠正辰の婿養子となっていたので、楠正雪とか楠家の本姓である橘正雪と名乗っていたようです。

次第に頭角を現し大名や将軍家から出仕の申し出がきますが、それを断り軍学塾を開きました。弟子は3000人もいたそうです。

時は関ヶ原、大坂の陣が終わり、大名の減封、改易がつづき、浪人が増大した時代でした。

将軍家光が死去し、後継家綱もまだ10才とあり、これを機ととらえた正雪は浪人救済を唱えて、槍の名手、丸橋忠弥や金井半兵衛らとともに幕府転覆を計画したのです。

丸橋は江戸、金井は大坂で同士を募り、正雪は京都で天皇を擁し勅令をもらう計画でした。しかし、奥村八左衛門の密告により計画が露見し、丸橋は江戸で捕らえられ、鈴ヶ森で磔、金井は天王寺で自刀しました。

正雪は計画が露見したことを知らずに京都に向かう途中の駿府(静岡)に宿泊していたところを、同心に囲まれ計画が漏れたことを知り、やむなく自刀しました。

 

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