遺跡・史跡

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静岡県は、徳川家康が天下統一の足がかりとしたところ。ペリーが訪れたところ。徳川家康ゆかりの名所・旧跡、名所にまつわる神話・・・・ぜひ歴史散策を楽しんでみて下さい。

静岡の遺跡と史跡ベスト5選

 

国指定特別史跡登呂遺跡

 

 

昭和18年の軍需工場建設の際、多量の木製品や土器片が出土したため、同年第一次の発掘調査が行なわれました。

戦後間もない昭和22年には考古学・人類学・地質学など各分野の学者が加わった日本で初めての学際的発掘調査が行なわれました。

発掘調査により東西に長い自然堤防上に、12軒の家、2棟の倉庫、井戸、森林の跡や、南側には水田の広がりが見つかりました。

遺跡からは、壺・甕などの土器、石器の狩猟漁撈具、木製の農耕具・機織具・日常生活用具、青銅製装身具など、多種多様な生活に関する道具が出土しています。

現在、遺跡内には、復元住居や復元倉庫、赤米など米づくりを行っている復元水田が広がっています。遺跡に隣接して「静岡市立登呂博物館」があり、1階は参加体験型展示、2階は登呂遺跡の考古資料の展示がなされています。

 

◆掛川城について

 

駿河守護今川氏の臣朝比奈泰熈が文明年間(1469~86)に創建したと伝わっています。戦国時代には今川・武田・徳川による争奪戦が繰り広げられました。

天正18年(1590)に豊臣秀吉麾下の山内一豊が入城し在城した10年間で天守閣の建立や城下の整備がなされ、東海の名城と称されました。慶長5年(1600)関ヶ原の戦いの功績で一豊が土佐へ転封となると、その後城主はめまぐるしく交代しますが、延享3年(1764)太田資俊が城主となり代々五万三千石を領して明治を迎えました。

近年までは、城郭御殿(国重要文化財)と太鼓櫓を残すのみでありましたが、長年の市民の願いがかない、平成6年4月、日本初の本格木造によって美しく勇壮な姿が復元されました。◎山内一豊(1546-1605)は、丹羽郡岩倉生れです。

織田信安・信長、豊臣秀吉に仕えました。関ケ原の戦い後、徳川家康から土佐一国を与えられ、土佐藩の祖となりました。「一豊の妻」の逸話は有名です。

 

駿府城址について

 

前身は駿河守護今川氏の駿府館といわれるが館の所在地については諸説あります。駿府館は永禄11年(1568)武田信玄の攻撃により焼亡しました。

このとき今川氏滅びます。天正10年(1582)武田氏滅亡して徳川家康が駿河を領有として、同13年城を修築して翌年浜松城から移ります。家康関東移封後、中村一氏が入城しました。

江戸開府後の慶長12年(1607)家康が大改築して隠居城とする。家康没後、頼宣・忠長などが城主となるが、明治まで幕府が直轄しました。

現在は駿府城公園として市民に解放されています。

◎徳川家康(1542-1616)は、三河岡崎城主の松平広忠の長男です。今川義元の人質として駿府で育ち、義元の敗死後独立して岡崎城主となりました。そののち、遠江・駿河・甲斐・信濃を領有し、天下取りの基を築き、晩年は駿府で没しました。

◎徳川忠長(1606-32)徳川秀忠の三子で、駿河・遠江・甲斐・信濃のうち55万石を領し、駿河に住みました。兄家光に対抗したため罪に問われ自殺しました。

 

諏訪原城跡について

 

永禄11年(1568)武田信玄が遠江侵攻のために築いた砦を、その子勝頼が大規模な山城に修築し、遠江攻略の拠点としました。

天正3年(1575)8月、長篠で敗戦した後、遠江に進攻した徳川家康の手に落ち、牧野城と改名しました。横須賀城跡について天正6年(1578)徳川家康が武田氏の拠点高天神城奪取を企図して、馬伏塚城主大須賀康高に命じて築城しました。

康高のあと子の忠政が継ぎ、以後松平、井上、本多氏とつづき、西尾氏が二万五千石で入封して、八代忠篤の時に明治維新を迎えました。城は明治6年(1873)に破却された。現在は史跡公園として整備されています。

 

国指定文化財。二俣城址について

 

 

創築不詳だが、文明6年(1474)には今川氏の属城になっていて、二俣、松井氏が在城。永録11年(1568)徳川家康が遠江に侵攻して奪い、中根正照が入城しますが、元亀3年(1572)武田信玄に攻められて降伏、依田信守・信蕃父子が入城します。

天正3年(1575)徳川家康が奪還して大久保忠世が入城します。同18年、家康の関東移封とともに忠世は小田原城に移り、以後、廃城となりました。

 

浜松城について

 

静岡県浜松市の中区にある浜松城(はままつじょう)は、元亀元年(1570)、徳川家康が遠州攻略の拠点として築いた城です。家康はここで29歳の時から駿府城に入る45歳までの17年間を過ごしました。

浜松城の城郭は、南北約500メートル、東西約450メートルにわたり、三方ヶ原台地の斜面に沿って西北に天守曲輪(てんしゅくるわ)、その東に本丸、二の丸、さらに東南に三の丸がありました。

明治維新後、城郭は壊され荒廃していましたが、昭和33年(1958)、野面積み(のづらづみ)の旧天守台の上に新天守閣が再建されました。天守閣は三層三階、地下一階の鉄筋コンクリート造り、最上階の展望台からは浜松市内が一望できます。内部は鎧や刀剣などを展示する郷土博物館になっています。

 

残したい!静岡の史跡・遺跡

 

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