修善寺町と修禅寺

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修善寺町では縄文前期(7000年以前)の遺跡が数個所発見されており、この頃には既に人間が生活を始めていたことがわかります。

しかし、それ以後の弥生から奈良時代に至るまでは、多少の遺跡が発見された程度で、詳しいことは不明です。

修善寺町の記録された歴史の始まりは、平安初期に弘法大師が修禅寺を開基した頃からです。

当時は地名を桂谷と呼び、寺名を桂谷山寺といっていましたが、鎌倉初期には、寺名を修禅寺というようになっており、地名も寺領だったところから修禅寺と呼ばれています。

この時代には源範頼、頼家が幽閉され暗殺されるという源氏興亡の哀史の舞台となっています。

室町後期に至り、現在呼ばれているように、寺名を修禅寺、地名を修善寺と区別するようになりました。

徳川初期には、金山奉行の大久保長安が瓜生野金山を開発し、慶長小判などの金が採掘されました。

また、紙谷では修善寺紙が漉かれ、これを色よし紙といって上流社会で珍重されました。

徳川末期になって、下田開発と共に街道宿として、本立野宿が栄えています。温泉地としては、明治に至るまでには既にある程度開けていましが、この頃の宿は共同浴場を利用していました。

明治になってから湯治客専用の内湯旅館が誕生し、交通機関などが整備されて、多くの文人墨客が訪れるようになりました。

大正末期には駿豆線が修善寺まで開通し、修善寺駅前周辺が整備されて急速に発展しました。

このとき、修善寺は他村に先がけ、郡下最初の町制が施行されました。昭和30年代に至り、下狩野村、北狩野村と合併しました。

その後、平成16年4月1日に修善寺町、中伊豆町、天城湯ヶ島町、土肥町の4町が合併し、伊豆市となりました。

修善寺は過去の地震でゆがんだ本堂の柱や梁などの骨組みを組み直しのため、屋根の瓦を全ておろしての大がかりな改修工事をしました。

修善寺温泉発祥の寺で、温泉地の中心にあります。平安初期の大同2年(807年)に弘法大師が開基したと伝わるお寺で、当時は地名が桂谷と呼ばれていたところから桂谷山寺といわれ、伊豆国禅院一千束と正史に記されたほどの格式の高い寺でした。

鎌倉初期になって建長年間(1250年頃)に蘭渓道隆(臨済宗鎌倉建長寺開山の宋禅僧)が住し、桂谷のおもむきが支那の廬山に似ていることから当時は肖廬山と号していました。

南北朝時代の康安元年(1361年)になって、畠山国清と足利基氏との戦禍を受け、応永9年(1402年)には火災を蒙り、伽籃を全焼して寺は荒廃し衰退しました。

その後、延徳元年(1489年)に至り、韮山城主の北条早雲が外護者として再興し、叔父の隆溪繁紹(遠州石雲院)が住して曹洞宗に改宗され山号も福地山と改められ今日に至っています。

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