城下町であった浜松宿

Pocket

 

浜松宿は浜松城の城下町であったことから、本陣6軒、旅籠94軒と東海道最大規模の宿場であった。近代浜松は東京、大阪の中間にあって、工業都市として発展したが、そのため戦時中、激しい空襲に会い、徹底的に破壊されて、昔の姿はほとんど留めていません。

浜松宿は徳川家康が築城した浜松城の城下町であり、東海道最大規模の宿として栄えた。歴史としては古く、昔は「引馬宿」ともいい、十六夜日記(1280年代)に見えている。城は家康以後も水野忠邦をはじめ老中などに出世する者を出し、出世城と言われた。

浜松の名の起こりについては、永享四年(1432)、「足利義教公」がこの地で酒宴を催した時、「はま松の音はざざんざ」と歌を詠まれたのが始まりだという。

佐藤本陣跡

大名・公家・幕府役人など貴人の宿泊のために宿場に置かれた旅館を本陣と言う。浜松には本陣が6ヶ所あった。建坪はおよそ225坪。

杉浦本陣跡

大名・公家・幕府役人など貴人の宿泊のために宿場に置かれた旅館を本陣と言う。浜松の本陣6ヶ所のうちで最も古い。建坪がおよそ272坪(約900m2)あった。

川口本陣跡

大名・公家・幕府役人など貴人の宿泊のために宿場に置かれた旅館を本陣と言う。浜松の本陣6ヶ所のうちで最も新しい。建坪がおよそ163坪(約540m2)あった。

五社神社(諏訪神社)

諏訪神社はかなり規模の大きい神社です。家康が2代将軍秀忠の誕生を祈願し、浜松城内にあった五社神社を産神として、現在地に遷座した。元々は太玉命を祀る神社であったものに、春日大社の祭神四柱を勧請して、現在の五柱となったものと見られている。

子育て地蔵

「長年子供に恵まれなかった町民が、願をかけたところ子供が授かったといわれる地蔵尊です。戦前は、今はない地蔵堂に集まり7月24日に地蔵盆を盛大に催していました。」 コンクリート製の台の上に、屋根を付けた小さな小屋の中に、所せましと、大小様々な地蔵尊が20体近く安置されている。何時来ても香華の絶えることがない。

二つ御堂

奥州平泉の藤原秀衡が京都で大病と聞いた愛妾が京へ上る途中、ここで秀衡死去の誤報を聞き、その菩提を弔うために阿弥陀堂を建立した。一方、京の秀衡は病が回復し、帰国の途中ここでその話を聞き、愛妾への感謝を込めて向側の薬師堂を建てたと言われています。

音羽の松

「六所神社」入口に「音羽の松」というのがある。浜松の名前の起源となった、「ざざんざ松」の弟分に当たる巨木だったという。現在は残念ながら、すでに枯れてしまい、新しい松に植え変えられ、「記念碑」が建てられているだけです。

秋葉常夜燈

舞阪には往還沿いに3基の常夜燈がある。舞坂宿では、文化6年(1809年)元日、宿場の大半を焼き尽くす大きな火事に見舞われたことから、これをきっかけに火防(ひぶせ)の秋葉信仰が広がり、常夜燈を建て、秋葉講を組織して火の恵みに感謝するとともに、火の用心を誓いあった。

常夜燈の竿石の四面には、両皇太神宮、秋葉大権現、津島牛頭天皇、建立年月が刻まれている。新町の常夜燈は、文化12年(1815年)正月に建立されたもので、灯りをともして悪霊の侵入を防ぎ地域を鎮めるとともに、闇夜を照らす道しるべとして守られてきた。月詣りやのぼり立ては、今も地域の人たちに受け継がれている。

稲荷神社


鳥居は両部形式で、朱色に塗られ、四本の稚児柱と呼ばれる控柱で支えられている。うしろの稲荷鳥居は石造りで文化十三年丙子年(1816)十一月吉日 遠州屋傳兵衛奉献 江戸小船町傳次郎と刻まれている。

史跡引佐山大悲院観音堂聖跡

昔、稲荷神社の先、右側に、馬郡観音堂が建っていて、安置されていた観音像は定朝作と伝わる。戦後に廃堂になり、観音像は近くの如意寺に移されているという。

春日神社

奈良の春日神社から勧請されたものらしく、真っ赤な社殿である。春日神社境内には普通の神社にあるような「狛犬」はなく、春 日神の使いである、雌雄二頭の「白鹿」が立っている。

「富士」が見える見付宿

Pocket

 

見附宿は、本陣2軒、脇本陣1軒、旅籠56件と大変賑わっていた宿場である。
見附という名前は、京側から旅をしてきてここで初めて「富士」が拝めたため、「見附」の名前がついたとも言われている。

見附宿東木戸跡

Exif_JPEG_PICTURE

「遠州見付宿 木戸跡」と書かれた木柱がある。

大見寺(だいけんじ)

中世には、境内に今川氏によって築かれた城があった。江戸時代の絵図には、大見寺を取り囲むように見付端城の土塁が描かれている。

見附宿脇本陣大三河屋門

大三河屋ははじめ旅籠屋だったが、文化2年(1805)に脇本陣となった。この門は、2本の本柱上に冠木を渡し、その上に梁と切妻屋根を載せている。武家や商家の屋敷の門には棟門が使われるが、脇本陣の玄関を飾るためか、小さいながら薬医門の形をした門である。

旧見附小学校

学制発布後まもない明治8年(1875)に落成した現存する日本最古の洋風木造小学校校舎である。当所は4階建てだったが、明治16年に増築されて今の5階建てとなった。

姫街道追分(ひめかいどうおいわけ)

東海道見附宿と御油宿を結ぶ東海道の脇街道。浜名湖の北側、本坂峠を越える道、本坂道、本坂通りとも言う。

見附宿西木戸

現在は西光寺の表門に西木戸と書かれたものがあるだけである。
当時は、加茂川橋に西木戸があった。

真ん中に位置する袋井宿

Pocket

 

袋井宿は、本陣3軒、脇本陣0軒、旅籠50件であった。
ここ袋井宿は日本橋、京のどちらから数えても27番目と、ちょうど真ん中に位置する宿であった。

天の橋

天橋(阿麻橋)は袋井宿の東の入口にかかっていた土橋で、有名な広重の版画「出来屋ノ図」にその姿が描かれている。

どまん中茶屋

袋井宿は東海道(日本橋、京都両方から27番目の宿)にあるので、どまん中茶屋という。

 

袋井宿には三軒の本陣が置かれていて、その場所から東、中、西本陣と呼ばれていた。三軒の本陣は東海道往還通に面して北側に建てられていた。三本陣のうち東本陣は「壱番御本陣」とも呼ばれ、代々八郎左衛門を名乗っていた田代家が営んでいた。

本陣の構造上の特色は門構えと玄関があり、また内部に「上段の間」が設けられていたことである。東本陣の場合、敷地全体の坪数1068坪、塀を除いた建坪288坪、間口13間半、奥行き31間もあり、その規模の大きさがうかがわれる。

高札場跡

御幸橋の袂に高札場跡がある。

袋井宿西本陣跡

袋井宿西本陣跡と書かれた石柱が民家の玄関横にるだけです。

鉤の手に折れ曲がる掛川宿

Pocket

 

掛川宿は、本陣2軒、脇本陣0軒、旅籠30軒で、掛川城の城下町として発展し、秋葉詣での参詣客で賑わっていたのだろう。

七曲り

七曲は、容易に敵を進入させないための構造だと考えられ、七曲りの終点に、城下に入ってくる人物や物を取り締まるための木戸と番所があった。番所には、捕縛のための三道具(刺股・突棒・袖がらみ)や防火用の水溜め桶などが備えられていた。

新町は、山内一豊が整備した城下町の東に発達した町並みで、元和6年(1620年)町として認められた。

掛川城

室町時代、駿河の守護大名今川氏が遠江進出を狙い、家臣の朝比奈氏に命じて築城させたのが掛川城のはじまり。戦国時代には、山内一豊が城主として10年間在城。働き盛りの一豊は大規模な城郭修築を行い、天守閣、大手門を建設すると共に、城下町の整備や大井川の治水工事などに注力した。

掛川は、一豊の人生にとって大きな意味をもつ土地であり、高知城は掛川城を模して作られたとも伝えらている。現在の掛川城は、平成6年4月に「東海の名城」と呼ばれた美しさそのままに、日本初の本格木造天守閣として復元されたものです。

円満寺(えんまんじ)

掛川城内にあった円満寺は、一豊による掛川城の大改修の一環である堀総普請のために現在位置へ移された。この寺の境内に現在も残っている蕗の門は、掛川城の内堀のほとりに建てられていた四足門で、廃城後に円満寺が買い受けて移築したものだそうです。

東光寺・秋葉常夜燈

成田山東光寺の山門前の碑には「成田山遥拝所」と刻まれている。十九首塚に祀られるとされる将門の本拠地は千葉県成田山であるためか、十九首塚隣にある東光寺は明治10年に本山の心勝寺より不動明王の霊を移して祭り、大正時代に遠州で唯一の遙拝所として認可された。山門横には秋葉常夜燈がある。

十九首塚公園(じゅうくしゅつかこうえん)

天慶3年(940年)の天慶の乱の時に、藤原秀郷の一行に滅ぼされた平将門と18人の武将の首級が埋葬されていると言われている。19基あった首塚も時代の流れと共に年々数が少なくなり、平将門のものといわれるおおきな塚1基だけが残された。十九首塚史跡公園に19基の首塚が完成した。

東海道で3番目に小さな日坂宿

Pocket

本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠33軒の宿場であり、坂下、由比に次いで、東海道で3番目に小さな宿場だった。

秋葉常夜燈(あきばじょうやとう)

火難をよける日伏の神として宣伝された秋葉寺が組織した講を信仰し、1856年(安政3年)に建立されたものと云われている。

日坂宿本陣跡(にっさかじゅくほんじんあと)

25番目の宿である日坂の本陣跡。 「本陣 扇屋」という記載のある木札も並んでいる。

問屋場跡(といやばあと)

問屋1人、年寄4四人、帳付5人、馬指3人、人足割3人、同下役6人が仕事をしていたと云われる日坂宿問屋場跡。

黒田脇本陣跡(くろだわきほんじんあと)

日坂宿の脇本陣は時代と共に移りかわり何軒かが努めた。幕末期に日坂宿最後の脇本陣を努めた「黒田屋(大澤富三郎家)」があった。黒田屋は文久2年(1862年)の宿内軒並取調書上帳に、間口8間・奥行15間・畳101畳・板鋪15畳・惣坪数〆120坪と記されている。明治天皇が街道巡幸の際、明治2年3月21日と明治11年11月2日の2回にわたりここ脇本陣で小休止をなされた。

 

脇本陣などの肩書きはないが、身分の高い武士や公家なども宿泊した格の高い旅籠屋であったことが推測されている。 現在は、資料館として開放されている。

高札場跡(こうさつばあと)

高札場は人々の注目をひきやすい所に設置され、日坂宿では相伝寺観音堂敷地内にあり、下木戸の高札場とも言われていた。

下木戸跡(しもきどあと)

江戸時代、宿場の治安維持のため、東西の入口には木戸が設けられていた。大規模な宿場では観音開きの大きな門でしたが、小規模であった日坂宿では川が門の役割を果たしていた。

古宮橋の架かる逆川のこの場所が「下の木戸(下木戸)」となっていて、江戸時代初期の頃までは橋幅も狭く、粗末な木橋で、いったん事が起こったときは、宿場の治安維持のために橋をはずしたとも伝えられている。宿役人の管理下にあった高札場が木戸の機能を果たしていたという説もある。