白洲賀宿

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本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠27軒の小さな宿場町であった。宝永4年(1707)の大津波で高台に移るまで、現在より東の海岸に近いところにあった。

白須賀宿本陣跡

本陣とは、江戸時代、公家・大名・幕府役人などが旅の途中に宿泊・休憩した施設である。宿場の中央に大きな間口を占め、門・玄関・上段の間を備えた立派な建物であった。

本陣職は代々世襲して本陣経営を続け、名字帯刀を許されているものもあった。この地は、本陣大村庄左衛門宅跡で、元治元年(1864年)の記録には、建坪183坪、畳敷231畳、板敷51畳とある。

白須賀宿脇本陣跡

現在は脇本陣と書かれた石柱があるのみ。

甕麿址・諸平生誕地(みかまろあと・もろひらせいたんち)

夏目甕麿は、通称嘉右エ門、萩園と号した。
酒造を業とした傍ら国学を内山真龍に学び、後、本居宣長の門に名を連ねた。
賀茂真淵の「万葉集遠江歌考」「鈴の屋大人都日記」等を上梓出版して国学の普及につとめた。著書に「吉野の若菜家集」等数篇がある。文政五年(1822年没)。
加納諸平は甕麿の長子、柿園と号した。若くして紀州和歌山の本居大平の許に寄寓乞われて加納家の養子となる。後、紀州候に召されて国学を講じ国学所総裁となる。
諸平には「当代類題和歌選集」「鰒玉集」七巻の外に「柿園詠草」「柿園詠草拾遺」等の家集を始め数多くの著作がある。

白須賀宿の火防(しらすかしゅくのかぼう)

東海道白須賀の宿は、津波の難を恐れ、宝永五年(1708年)潮見坂の下から、坂上へ宿替えをした。それまでの坂下の白須賀を、元宿と呼ぶのはこの為である。
宿場の移転以来、津波の心配は無くなったが、今度は冬期に西風が強く、たびたび火災が発生し、しかも大火となることが多かった。これは当時、殆どの家の屋根が、わら葺きであったことにもよる。

そこでこの火事をくい止める為に、生活の知恵として工夫せられたのが火防で、人々は「火除け」とか「火除け地」とか呼んで大切にしていた。
火防の広さは、間口二間(3.6M)奥行四間半(8.2M)で、常緑樹で火に強い槙が十本くらい植えられ、元は宿内に三地点・六場所の火防があった。

笠子神社(かさごじんじゃ)

太古より笠子大明神と称し高師山の麓白菅帯の港の西岸に鎮座していましたが、高波や津波などにあって二度移転をし、現在地に移ったのは元和二年(1616)のことです。

関所が設けられた新居宿

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新居宿は、本陣3軒、脇本陣0軒、旅籠26軒であった。慶長5年(1600年)の関ヶ原合戦後に新居関所が設けられ、翌年に新居宿が設置された。現在の地に移るまでに、天災で2度移転している。

紀伊国屋(きのくにや)

新居宿旅籠紀伊国屋は、徳川御三家の一つ紀州藩の御用宿を務めた縁により正徳6年(享保元年1716)紀伊国屋の屋号を掲げ、以後宿内最大の旅籠として営業を続けた。明治7年(1874)に大火により焼失、直後に建て替えられ明治30年まで旅館業を営んだ。 建物は江戸後期の旅籠の様式を随所に残している。

飯田本陣跡

飯田本陣は、天保年間の記録によると建坪百九十六坪で、門構え玄関を備えていた。 飯田本陣には小浜、桑名、岸和田播など約七十家が利用した。 明治元年(1868年)の天皇行幸の際に行在所となり、同年の還幸、翌二年の再幸、明治十一年(1878年)の巡幸の際にも利用された。その行在所の建物は明治十八年(1885年)、奥山方広寺に移築された。

疋田本陣跡(ひきだほんじんあと)

飯田本陣の南隣りにあった。 天保年間の記録によると、建坪百九十三坪で門構え、玄関を備えていた。 八郎兵衛本陣には吉田藩のほか御三家など約百二十家が利用した。 庄屋、年寄役なども務めた。

本果寺(ほんがじ)

もとは真言宗のお寺であったが、元中七年(1390年)本興寺の末寺となり、法華宗に改宗した。 宝永四年(1707年)の大津波により大破、惣町移転となり、翌年現在の地に移転した。 徳川家康をはじめ代々の将軍より朱印を賜り、有栖川宮御祈願所を拝命し、位牌を安置。松山新田の開拓者野口休可の墓や無縁供養のめぐみ観音を祀る。 俳匠大野林火の句碑があり、「お経に化けた鯛」の伝話もある。平成十二年一字一石経の経塚に、「あけぼのの鐘」が建立された。

神宮禅寺(じんぐうぜんじ)

式内は景行天皇十九年(約1900年前)の創立と伝えられる古社である。当初は新居宿の総氏神、猪鼻湖神社として猿田彦大神を奉斎し、浜辺に鎮座していたが、数度の天災により宝永五年(1708年)現在地に遷座となる。 現神社名は井口嘉末なる者が信州より移り住み、天正年間(1590年頃)諏訪大明神の御分霊を合祀したことから、いつしか諏訪神社と称するようになった。

棒鼻跡(ぼうばなあと)

ここは新居宿の西境で、一度に大勢の人が通行できないように土塁が突き出て枡形をなしていた。 棒鼻とは、駕篭の棒先の意味があるが、大名行列が宿場へ入るとき、この場所で先頭(棒先)を整えたので、棒鼻と呼ぶようになったともいわれている。

 

城下町であった浜松宿

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浜松宿は浜松城の城下町であったことから、本陣6軒、旅籠94軒と東海道最大規模の宿場であった。近代浜松は東京、大阪の中間にあって、工業都市として発展したが、そのため戦時中、激しい空襲に会い、徹底的に破壊されて、昔の姿はほとんど留めていません。

浜松宿は徳川家康が築城した浜松城の城下町であり、東海道最大規模の宿として栄えた。歴史としては古く、昔は「引馬宿」ともいい、十六夜日記(1280年代)に見えている。城は家康以後も水野忠邦をはじめ老中などに出世する者を出し、出世城と言われた。

浜松の名の起こりについては、永享四年(1432)、「足利義教公」がこの地で酒宴を催した時、「はま松の音はざざんざ」と歌を詠まれたのが始まりだという。

佐藤本陣跡

大名・公家・幕府役人など貴人の宿泊のために宿場に置かれた旅館を本陣と言う。浜松には本陣が6ヶ所あった。建坪はおよそ225坪。

杉浦本陣跡

大名・公家・幕府役人など貴人の宿泊のために宿場に置かれた旅館を本陣と言う。浜松の本陣6ヶ所のうちで最も古い。建坪がおよそ272坪(約900m2)あった。

川口本陣跡

大名・公家・幕府役人など貴人の宿泊のために宿場に置かれた旅館を本陣と言う。浜松の本陣6ヶ所のうちで最も新しい。建坪がおよそ163坪(約540m2)あった。

五社神社(諏訪神社)

諏訪神社はかなり規模の大きい神社です。家康が2代将軍秀忠の誕生を祈願し、浜松城内にあった五社神社を産神として、現在地に遷座した。元々は太玉命を祀る神社であったものに、春日大社の祭神四柱を勧請して、現在の五柱となったものと見られている。

子育て地蔵

「長年子供に恵まれなかった町民が、願をかけたところ子供が授かったといわれる地蔵尊です。戦前は、今はない地蔵堂に集まり7月24日に地蔵盆を盛大に催していました。」 コンクリート製の台の上に、屋根を付けた小さな小屋の中に、所せましと、大小様々な地蔵尊が20体近く安置されている。何時来ても香華の絶えることがない。

二つ御堂

奥州平泉の藤原秀衡が京都で大病と聞いた愛妾が京へ上る途中、ここで秀衡死去の誤報を聞き、その菩提を弔うために阿弥陀堂を建立した。一方、京の秀衡は病が回復し、帰国の途中ここでその話を聞き、愛妾への感謝を込めて向側の薬師堂を建てたと言われています。

音羽の松

「六所神社」入口に「音羽の松」というのがある。浜松の名前の起源となった、「ざざんざ松」の弟分に当たる巨木だったという。現在は残念ながら、すでに枯れてしまい、新しい松に植え変えられ、「記念碑」が建てられているだけです。

秋葉常夜燈

舞阪には往還沿いに3基の常夜燈がある。舞坂宿では、文化6年(1809年)元日、宿場の大半を焼き尽くす大きな火事に見舞われたことから、これをきっかけに火防(ひぶせ)の秋葉信仰が広がり、常夜燈を建て、秋葉講を組織して火の恵みに感謝するとともに、火の用心を誓いあった。

常夜燈の竿石の四面には、両皇太神宮、秋葉大権現、津島牛頭天皇、建立年月が刻まれている。新町の常夜燈は、文化12年(1815年)正月に建立されたもので、灯りをともして悪霊の侵入を防ぎ地域を鎮めるとともに、闇夜を照らす道しるべとして守られてきた。月詣りやのぼり立ては、今も地域の人たちに受け継がれている。

稲荷神社


鳥居は両部形式で、朱色に塗られ、四本の稚児柱と呼ばれる控柱で支えられている。うしろの稲荷鳥居は石造りで文化十三年丙子年(1816)十一月吉日 遠州屋傳兵衛奉献 江戸小船町傳次郎と刻まれている。

史跡引佐山大悲院観音堂聖跡

昔、稲荷神社の先、右側に、馬郡観音堂が建っていて、安置されていた観音像は定朝作と伝わる。戦後に廃堂になり、観音像は近くの如意寺に移されているという。

春日神社

奈良の春日神社から勧請されたものらしく、真っ赤な社殿である。春日神社境内には普通の神社にあるような「狛犬」はなく、春 日神の使いである、雌雄二頭の「白鹿」が立っている。

「富士」が見える見付宿

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見附宿は、本陣2軒、脇本陣1軒、旅籠56件と大変賑わっていた宿場である。
見附という名前は、京側から旅をしてきてここで初めて「富士」が拝めたため、「見附」の名前がついたとも言われている。

見附宿東木戸跡

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「遠州見付宿 木戸跡」と書かれた木柱がある。

大見寺(だいけんじ)

中世には、境内に今川氏によって築かれた城があった。江戸時代の絵図には、大見寺を取り囲むように見付端城の土塁が描かれている。

見附宿脇本陣大三河屋門

大三河屋ははじめ旅籠屋だったが、文化2年(1805)に脇本陣となった。この門は、2本の本柱上に冠木を渡し、その上に梁と切妻屋根を載せている。武家や商家の屋敷の門には棟門が使われるが、脇本陣の玄関を飾るためか、小さいながら薬医門の形をした門である。

旧見附小学校

学制発布後まもない明治8年(1875)に落成した現存する日本最古の洋風木造小学校校舎である。当所は4階建てだったが、明治16年に増築されて今の5階建てとなった。

姫街道追分(ひめかいどうおいわけ)

東海道見附宿と御油宿を結ぶ東海道の脇街道。浜名湖の北側、本坂峠を越える道、本坂道、本坂通りとも言う。

見附宿西木戸

現在は西光寺の表門に西木戸と書かれたものがあるだけである。
当時は、加茂川橋に西木戸があった。

真ん中に位置する袋井宿

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袋井宿は、本陣3軒、脇本陣0軒、旅籠50件であった。
ここ袋井宿は日本橋、京のどちらから数えても27番目と、ちょうど真ん中に位置する宿であった。

天の橋

天橋(阿麻橋)は袋井宿の東の入口にかかっていた土橋で、有名な広重の版画「出来屋ノ図」にその姿が描かれている。

どまん中茶屋

袋井宿は東海道(日本橋、京都両方から27番目の宿)にあるので、どまん中茶屋という。

 

袋井宿には三軒の本陣が置かれていて、その場所から東、中、西本陣と呼ばれていた。三軒の本陣は東海道往還通に面して北側に建てられていた。三本陣のうち東本陣は「壱番御本陣」とも呼ばれ、代々八郎左衛門を名乗っていた田代家が営んでいた。

本陣の構造上の特色は門構えと玄関があり、また内部に「上段の間」が設けられていたことである。東本陣の場合、敷地全体の坪数1068坪、塀を除いた建坪288坪、間口13間半、奥行き31間もあり、その規模の大きさがうかがわれる。

高札場跡

御幸橋の袂に高札場跡がある。

袋井宿西本陣跡

袋井宿西本陣跡と書かれた石柱が民家の玄関横にるだけです。