937(承平7)年の富士山噴火の際に溶岩が東側にも流出。その際に、いくつもの樹木が重なり合って複雑な樹型をつくり、その形から女性の胎内に例えられたのが吉田胎内。
やがて胎内信仰に繋がり、吉田胎内は富士山を訪れた修行者たちから祈りの対象となりました。
溶岩が流れ下る際に樹木を取り込んで固化し、燃えつきた樹幹の跡が空洞として遺存した洞穴を溶岩樹型と言う。
吉田胎内樹型及び船津胎内樹型は、その代表的な事例である。
吉田胎内樹型
そのうち、内部の形態が人間の内臓を刳り抜いた胎内に似たものが「御胎内」と呼ばれて信仰の対象となり、「胎内巡り」と称して洞内を巡る信仰行為が行われるようになった。
吉田胎内祭
両者は吉田口登山道に近接して存在したことから、多くの富士講信者によって重視され、一連の霊地として位置付けられた。
富士講の講者や御師たちによって守られ、周囲に点在する60以上の樹型を含めた吉田胎内樹型群は、国の天然記念物に指定。現在も一年に一度、吉田胎内祭が開かれています。
胎内巡りを行う富士講信者は、登拝の前日に「御胎内」を訪れ、洞内を巡って身を清めた。その後、御師住宅に戻って、翌日の登拝に備えた。
御師住宅(御師旧外川家住宅)
富士山の北麓に位置する吉田胎内樹型は、1892年に富士講信者によって発見され、巡礼の場となった溶岩樹型である。
洞穴内には、浅間大神の化身であり、富士山の祭神である木花開耶姫が祀られている。
また、吉田胎内樹型を含む溶岩樹型は、生命の起源となる母胎の臓器にも似ていることから、やがて安産祈願の対象ともなり、火山が生んだ造形における信仰行為の実践を通じて、人々の間に自然との共生を重視する伝統を育んだ。