村山は、富士山における修験道の中心地であり、明治時代の廃仏毀釈運動により廃されるまで、興法寺という寺院があった。 鎌倉時代には、末代上人に関連する修行者により寺院が成立したと考えられ、村山には正嘉3年(1259)の銘がある大日如来坐像が伝わっている。
文明18年(1486)には聖護院門跡道興の来訪があり、この頃には本山派に加わるようになったと考えられる。
戦国時代初めには、今川氏の庇護を受け、修験者や道者が集まり、周辺には坊が建ち並んでいたと考えられている。
16世紀作とされる「絹本著色富士曼荼羅図」には、興法寺で諸堂を礼拝したり垢離をとったりする道者の姿が見える。
また、興法寺周辺(元村山集落)は周囲の集落より一段高い場所に位置し、戦国時代には東西の見附で出入りを取り締まっていた。
近世には、村山三坊(池西坊・辻之坊・大鏡坊)が興法寺や集落とともに、大宮・村山口登拝道や山頂の大日堂を管理した。
興法寺
近世の村山は、興法寺を中心とする、修験者や門前百姓の住む修験集落だった。登山期には、三坊の免許を受けた各地(主に富士川以西畿内まで)の先達が、道者を連れて村山を訪れた。
また、元禄年間に、幕府の寄進を受け、現在の境内の基礎が整えられたと考えられている。
明治初年の神仏分離令により、三坊の修験者は還俗し、興法寺は廃され、興法寺の中心的堂社であった浅間神社と大日堂は分離された。
また、大棟梁(だいとうりょう)権現社(ごんげんしゃ)は廃され場所を変え高嶺総鎮守として祀られた。
明治39年(1906)の登山新道の開削により、登山道から外れた。なお、修験道は明治5年(1872)に禁止されたが、村山の法印(ほうえん)(修験者)の活動は1940年代まで続けられた。
村山浅間神社社殿
浅間神社は、神仏分離によって境内社富士浅間七社を相殿として造られた。中座に木花開耶姫、左座に大山祗命、彦火々出見命、瓊々杵命、右座に大日霊貴(天照大神)・伊弉諾尊・伊弉冉尊を祀っている。 現在の社殿は大正2年に改築されたものだが、幣殿と拝殿は老朽化したため、その後鉄筋コンクリート一部木造に建て替えられている。
冨士山興法寺大日堂
明治初年まで存在した興法寺(こうほうじ)の中心的な建造物で、部材の状況や絵洋彫刻の特徴などから江戸末期の建造と考えられ、江戸時代の建造物としては現存する唯一のものである。建物内には、木造大日如来坐像や役行者(えんのぎょうじゃ)像が祀られ、柱には富士峰修行の打札が残り、かつての修験信仰の面影を強く伝えている。
水垢離場
山伏修行(修験者)や富士登拝の道者(どうじゃ、どうしゃ)が垢離をとって身を浄めた所。境内の中段に、間口約6.5m・奥行き約4mの長方形、深さ約0.6mに掘り込み、底に石を敷きつめ、周囲は石積みとなっている。水の落ち口には山伏修行のときの主尊とされる不動明王の石像が安置されている。 水源は、古絵図や発掘調査の成果から、「龍頭の池」の水を引いていたと推定される。
護摩壇
大日堂東側にあり、正面奥に不動明王石像が祀られている。 一辺5.3mの四囲の石組の中に、丸い石組の護摩壇がある。護摩壇の前には、「于時安政四年九月」の年号と造立者銘が刻まれた石があり、安政四年(1857)に龍宝院などの村山下修験によって造立されたと推定される。 古絵図から、かつて大棟梁権現社の拝殿にあたる部分と推定される。
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