河口浅間神社は、河口湖を挟んで富士山と対峙する神社。864年(貞観6年)より始まった富士山の貞観大噴火を鎮めるため、翌865年(貞観7年)に浅間明神を祀ったのを始まりとしている。
「日本三代実録」によると、864年(貞観6年)5月25日に始まった富士山の噴火は、7月17日、八代郡の「本栖海」(本栖湖)と「せの海」を溶岩流で埋没させた。
8月5日、占いによって、噴火は駿河国の富士本宮浅間大社の祭祀怠慢とされたため、甲斐国にも浅間明神を祀ることとし、翌865年(貞観7年)12月9日、甲斐国八代郡家の南に神宮を建てたのだという。。
本殿
現在の本殿は、1606年(慶長11年)に焼失した後、翌1607年(慶長12年)に領主鳥居成次によって再建されたもので、宮大工関善左衛門尉藤原家継らの手によって完成された。1965年(昭和40年)に解体修理が行われている。
拝殿前に置かれた石祠は、「美麗石」(ヒイラ石)と呼ばれ、これは『日本三代実録』にいう浅間明神を初めて祀った古代祭祀の石閣と伝えられている。
「美麗石」(ヒイラ石)
石をもって造営された祭祀は彩り美麗だったといわれている。
「太々御神楽祭」(だいたいおかぐら・おだいだい)は、富士の貞観噴火を鎮めた祭神(木花開耶姫命)を、穢れをしらない稚児が舞を奉納して慰めるもの。
舞を演ずる稚児には氏子の中で両親の健全な童女が選ばれ、その舞は「河口の稚児舞」として県の無形文化財に指定されている。
境内の七本のスギの神木は、いずれも樹齢1200年を越えるといわれ、「河口浅間神社の七本杉」として県の天然記念物に指定されている。