溶岩が流れ下る際に樹木を取り込んで固化し、燃えつきた樹幹の跡が空洞として遺存した洞穴を溶岩樹型と言う。
そのうち、内部の形態が人間の内臓を刳り抜いた胎内に似たものが「御胎内」と呼ばれて信仰の対象となり、「胎内巡り」と称して洞内を巡る信仰行為が行われるようになった。
船津胎内樹型及び吉田胎内樹型は、その代表的な事例である。
船津胎内樹型
両者は吉田口登山道に近接して存在したことから、多くの富士講信者によって重視され、2つの「御胎内」が一連の霊地として位置付けられた。
胎内巡りを行う富士講信者は、登拝の前日に「御胎内」を訪れ、洞内を巡って身を清めた。その後、御師住宅に戻って、翌日の登拝に備えた。
17世紀の初め頃、長谷川角行が富士登拝を行った際に船津胎内樹型に含まれる溶岩樹型のうちの一つを発見し、その内部に浅間大神を祀ったとされる。
浅間大神
さらに1673年には、村上光清(1682~1759)が現在の船津胎内樹型の中でも最も大規模な溶岩樹型を発見し、その内部に改めて浅間大神を勧請するとともに、入口付近に無戸室浅間神社の社殿を建立した。
無戸室浅間神社の社殿
洞穴内には、浅間大神の化身であり、富士山の祭 神である木花開耶姫が祀られている。 また、船津胎内樹型を含む溶岩樹型は、生命の起源となる母胎の臓器にも似ていることから、やがて安産祈願の対象ともなり、火山が生んだ造形における信仰行為の実践を通じて、人々の間に自然との共生を重視する伝統を育んだ。