第39番札所 観音寺

かつては須崎の別の地にあった真言宗の寺院で、暘谷院という寺号でした。 1615(元和元)年に、曹洞宗に改宗し、現在の寺院名となりました。 その後、火災に遭い、1747(延享4)年に現在地に遷移しました。

下田市の南東、須崎半島にあり、運慶作と伝わる十一面観世音菩薩像を御本尊として奉安する禅刹です。開創年代は不明。当初は真言宗で須崎川上にあり、暘谷院と号しました。元和元年(1615年)(寛永年間とも)、相州秦野香雲寺九世・大室宗樹が曹洞宗に改宗し、現寺号に改めました。延享四年(1747年)、火災に遭い現在地に移転と伝わります。

観音寺はこの須崎半島の南端、須崎漁港の山側、海抜約15mの高台にあります。参道は石段で、石段右手に札所標。その先に切妻屋根桟瓦葺の端正な四脚門を構えています。山門正面が本堂。寄棟造銅板で、向拝柱のないシンプルな堂容です。

参道入口
山門
本堂
向拝

本堂内は、五色幕が張り巡らされた本堂内は観音霊場らしい華やぎがあります。

本堂内
本堂内扁額
山号西向山(にしむきさん)
寺院名観音寺(かんのんじ)
宗派曹洞宗
本尊十一面観世音菩薩
真言おんまか きゃろにきゃ そわか
住所下田市須崎615

第40番札所 玉泉寺

天正年間(1573~1592年)以前は真言宗の小さな庵でした。 1848(嘉永元)年3月に現在地に堂宇が完成し、山号を瑞龍山としました。

1856(安政3)年にタウゼント・ハリスが下田に入港した折、本邦初のアメリカ総領事館が置かれた寺院で、国の文化財に指定されています。

もとは真言宗の草庵でしたが、天正のはじめ(1580年代)開山一嶺俊栄大和尚の来錫により曹洞宗に改宗されました。元禄十二年(1699年)四世心翁三悦和尚のとき、上の山に改築落慶して海上山玉泉禅寺と号し、嘉永元年(1848年)、遺弟二十世翠岩眉毛和尚が現在地に伽藍を整備、山号を瑞龍山に改めたといいます。

石段のうえに構える山門は切妻屋根桟瓦葺。大棟と掛瓦の意匠が複雑で存在感があります。本堂は間口(桁行)七間半、奥行き(梁間)七間、総欅造りの寄棟造で銅板葺、軒先にかけてやわらかな照りをもつ上品な造りです。向拝柱はなく、扁額もかかげていません。米国総領事館は本堂に設置されたため、御本尊等の仏像は運び出され、現在ハリスの石碑が建っているあたりに移されていたそうです。

参道
山門
本堂
向拝
本堂内
扁額
山号瑞龍山(ずいりゅうさん)
寺院名玉泉寺(ぎょくせんじ)
宗派曹洞宗
本尊釈迦如来
真言のうまくさんまんだ ぼだなん ばく
住所下田市柿崎31-6

第41番札所 海善寺

かつては河津町の縄地に創立された真言宗の寺院でした。 その後、下田市本郷に遷移し布根山天気院と称しましたが、僧量誉によって浄土宗へと改宗となりました。 後に現在地に移り、富厳山海善寺と改めました。

当山は、戸田忠次が徳川家康公より五千石をもって下田領主として封ぜられた居館の跡とされます。その後戸田家は関ヶ原の功により加増を受け、三河田原一万石の大名となりました。文久三年(1863年)12月、攘夷を迫られた十四代将軍家茂公が蒸気船「翔鶴丸」で上洛の途中、西風に阻まれ下田に待避し当寺で越年したという記録が残ります。

観応元年(1350年)僧昭善が真言宗寺院として開創し、その後下田市本郷に移り布根山天気院と号し、天正十七年(1589年)僧量譽によって浄土宗へ改宗、天正十八年(1590年)現在地に移転して富巖山海善寺と号したという記載もみられます。

参道門柱から山門まで距離があり、山門も堂々たる楼門で寺格を感じます。山門は江戸時代の建立とのこと。本堂は昭和34年の火災で焼失し、近代建築となっています。

参道
山門
本堂
山号富巖山(ふげんさん)
寺院名海善寺(かいぜんじ)
宗派浄土宗
本尊阿弥陀如来
真言おん あみりた ていせい から うん
住所下田市一丁目14-18

第42番札所 長楽寺

以前は薬師院長楽寺と名で別の地にあったものを、1555(弘治元)年に僧尊宥が現在地に移しました。 その後明治初年の廃仏毀釈によって一旦は廃寺となりましたが、宝光院長命寺と併合し再興しました。宝光院長命寺の本尊であった聖観世音菩薩が伊豆横道三十三観音の第23番霊場となっています。

現地由緒書には「真言宗 弘治元年(1555)中興開山尊有により再興創建」と明記されていますが、草創年代は諸説あるようです。現在の長楽寺は、明治初頭の神仏分離令で廃寺の危機に追い込まれた際、法光院長命寺と合併することで存続したといいます。

文明七年(1475年)に鍋田の海(岸)に示現された薬師如来を僧尊宥(承應元年(1652年寂)が御本尊として開山という説があります。当初は薬師院長楽寺と号して別の地にあったものを、弘治元年(1555年)に僧尊宥が現在地に移して再興開山という説もあります。

安政元年(1854年)12月、大目付格・筒井政憲/勘定奉行・川路聖謨とロシア全権提督・プチャーチンとの間で日露和親条約(日露通好条約)が締結、翌年1月に日本側応接掛・井戸対馬守等と米国使節・アダムス中佐との間で日米和親条約批准書の交換が行われた寺院で、下田市の文化財に指定されています。

法光院長命寺は、ペリー艦隊に便乗して海外渡航するという企てに失敗した吉田松陰と金子重輔が一時拘禁された寺で、長命寺跡地は「吉田松陰拘禁之跡(長命寺跡)」として下田市の文化財に指定されています。

日露和親条約
吉田松陰拘禁之跡(長命寺跡)

本堂は宝形造で、頂部にはしっかり露盤、伏鉢、宝珠の3点セットが置かれています。桟瓦葺。流れ向拝が設けられ端正にまとまった堂宇です。

本堂
向拝
山号大浦山(おおうらさん)
寺院名長楽寺(ちょうらくじ)
宗派真言宗(高野山真言宗)
本尊薬師如来
真言おん ころころ せんだり まとうぎ そわか
住所下田市三丁目13-19

第43番札所 大安寺

初めは小田原にあった寺院です。 天正年間(1573~1591年)に再興され、近世初頭に現在地に移りました。日向佐土原藩の船が、将軍家に献上するための御用材を積んで江戸に向かう途中で暴風雨に遭い、やむを得ず積荷の一部を捨てて下田港に入港しましたが、御用材を捨てた責任をとり16人が自害しました。

当初は小田原にあったともいわれ、暘谷山因善寺と号した真言宗寺院でしたが、天正十年(1590年)寂用英順が相州香雲寺の実堂宗梅を請じて開山とし、曹洞宗に改め改号と伝わります。(異説あり)

将軍綱吉公代の貞享五年(1688年)3月、日向国佐土原藩主が将軍家御用材を御手船に積み江戸へ送る途中、遠州灘で嵐に遭い、やむなく積荷の一部を海に捨て難を逃れました。しかし乗組員16名は御用材を海に捨てた責任をとって全員が切腹し、大安寺に埋葬されました。

船に残されていた材木は、大安寺の本堂の柱としていまも残っているそうです。乗組員16名の墓は「薩摩十六烈士の墓」として下田市の文化財に指定されています。

大安寺は「マイマイ通り」に向かって長く参道を延ばしています。山門は切妻屋根銅板葺の薬医門で、山号扁額を掲げています。山内は思いのほか広がりがあります。

 山門
山門扁額
参道
山内

山門正面が本堂、その左手に聖観世音菩薩像、地蔵尊、鐘楼、その奥に切妻造のお堂があります。本堂は入母屋造本瓦葺の風格ある建物で向拝柱はありません。向拝見上げに寺号扁額。本堂前は多重塔、狛犬、石灯籠、摩尼車、天水鉢と賑やかです。

本堂
向拝
山号乳峰山(にゅうほうざん)
寺院名大安寺(だいあんじ)
宗派曹洞宗
本尊釈迦如来
真言のうまくさんまんだ ぼだなん ばく
住所下田市四丁目2-1

第44番札所 廣台寺

かつては桂昌庵という真言宗の小さな庵でした。 1612(慶長17)年4月21日に現在地に移り、曹洞宗に改宗、名も湯谷山廣台寺と改めました。1854(安政元)年に近隣が大津波に襲われた際、下田に滞在していたロシアのプチャーチン提督と幕府の勘定奉行川路聖謨が避難していました。

当初は藤原峯上(那岐里山)の桂昌庵という真言宗の小庵でしたが、慶長十七年(1612年)現在地に移り格雄宗逸和尚により曹洞宗に改宗して開山、湯谷山廣台寺と号を改めました。

安政元年(1854年)の大津波の際、下田に滞在していたロシアのプチャーチン提督と勘定奉行川路聖謨が当寺に避難しています。明治の初年には、地名のもととなった旧蓮臺寺の御本尊・大日如来が当寺で護持されていたとも伝わります。

現在、この旧蓮臺寺の御本尊・木造大日如来坐像(鎌倉期・木彫漆箔寄木造)は国の重要文化財に指定され、蓮台寺温泉街の西のはずれの丘上にある天神神社の収蔵庫に安置されています。

参道入口に寺号標。少しくおいて山肌を背に山門と本堂の屋根が見えます。山門手前に禅刹お決まりの「不許葷酒入山門」碑と欄干を備えた「天門橋」。

山内入口
参道

山門は切妻屋根本瓦葺で整った掛け瓦と大棟に山号、戸上に山号扁額を掲げて堂々たる構え。

山門
山門扁額

正面の本堂は入母屋造桟瓦葺で、向拝柱はなく、すっきり端正にまとまった堂です。

本堂
向拝
山号湯谷山(とうこくざん)
寺院名廣台寺(こうだいじ)
宗派曹洞宗
本尊聖観世音菩薩
真言おん あろりきゃ そわか
住所下田市蓮台寺140

第45番札所 向陽院

1402(応永9)年に天台宗の阿闍梨が諸国行脚で河内を訪れ、地蔵密庵と号した草庵を結び、虚空蔵菩薩と地蔵菩薩を奉ったことが草創です。

應永九年(1402年)叡山天台宗の学僧・公範阿闍梨が諸国行脚の折に河内を訪れました。
阿闍梨は、この辺りはいかにも諸佛遊化の霊地勝境と感得され、草庵を結ばれ虚空蔵菩薩と地蔵菩薩を奉安し、地蔵密庵と号したのが草創開基と伝わります。明應元年(1492年)、鎌倉から宣梅和尚(普翁國師とも)が入られ臨済宗に改宗して三壺山向陽院と号を改めて開山。

御本尊・地蔵菩薩は向陽院の縁の下から掘り出された石佛で、自ら疱瘡をなして里人の身代わりとなり、伊豆沖を航行する廻船が闇夜灘風に進路を失うときは、自ら燈火をともして航路を示されたといいます。とくに、海上安全、家内安全祈願の地蔵尊として信仰を集めているとのこと。現在、向陽院本堂には虚空蔵菩薩、高根山山上の境外仏堂には高根地蔵尊が奉安されている.

山門手前の「高根山地蔵尊別当」の碑と門柱の「壱月廿四日 高根地蔵海上交通安全祈祷会」の札板は、当山が高根山の地蔵尊の別当(いまでいうと護持寺院)であることを示しています。山門は切妻屋根桟瓦葺の四脚門、柱が細めですっきりとした印象です。

本堂は寄棟造桟瓦葺で手前に千鳥破風、大棟に山号を掲げています。水引虹梁両端に獅子の木鼻、頭貫上に斗栱、中備には本蟇股。向拝柱が太くがっしり安定感ある向拝です。

正面は本堂、参道左手に地蔵堂、右手にも堂宇があり、各堂の屋根が重なり合って美しいラインを描き出しています。

山内
右手の堂宇
本堂
向拝

地蔵堂は直角に2宇設置され、手前には多くの地蔵尊、奥のお堂には一躯の地蔵尊が奉安され、手前のお堂には高根不動尊の由緒書が掲げられていました。

地蔵堂
手前の地蔵堂
山号壺山(さんこさん)
寺院名向陽院(こうよういん)
宗派臨済宗(建長寺派)
本尊虚空蔵菩薩
真言のうぼう あきゃしゃきゃらばや
おんあり きゃ まりぼり そわか
住所下田市河内289

第46番札所 米山寺

733(天平5)年にこの地を訪れた行基が「寺を建てるのに良い所である」と言ったことから、人々がその意に従い、程なくして寺が建てられたと伝えられています。 本尊の薬師如来も行基の作で、同年10月20日に入仏点眼し安置されたといいます。

現地掲示によると、米山薬師は天平五年(733年)、行基菩薩が当地に留錫されたとき「此の地を観ずるに、東方医王の浄刹に似て仏を作り寺を建つるに佳なるべし」とお告げになり、茶粉と苦芋(トコロ)を練り合わせ、斎戒沐浴、四十八日の長き行の末に薬師如来像を造立されました。村人たちは堂宇を建ててこの尊像を安置し、以降篤く信仰しました。

その御利益は「僅かに御名を唱ふる輩は万事諸願に満足し、故に定業必死の人も此に来れば、則ち快癒を得る」といわれ、ことに眼病疾病に霊験あらたかで越後の薬師寺(米山薬師)、伊予の薬師寺(山田薬師)とともに「日本三薬師」に数えられ広く信仰を集めます。

国道に面して札所標、石灯籠。石段を少しくのぼると拝堂です。拝堂は寄棟造瓦葺で、向拝を付設しています。

参道入口
拝堂/向拝

拝堂の向かって右裏手から本堂(奥の院)への石段参道がはじまります。参道登り口には石仏が安置され、霊場らしい厳かな空気が感じます。

奥の院への参道
石仏
山号砥石山(といしざん)
寺院名米山寺(よねやまじ)
宗派無属(宗派に属さない)
本尊薬師如来
真言おん ころころ せんだり まとうぎ そわか
住所下田市箕作

第47番札所 龍門院

1099(康和元)年6月24日、保月嶽頂上の老松に光を放つ仏像が発見され、龍が降臨すると言われていたこの地に庵を建てて安置することとなりました。

後に行脚の僧が「この像は青面金剛明王である」と言い、奉るようになりました。 当時は真言宗の寺院でしたが次第に衰退し、1593(文禄2)年に太梅寺四世法山宗禅が復興して曹洞宗に改めました。

康和元年(1099年)6月、保月嶽頂上の老松に光を放つものがあり、頂に登ってみるとそれは一躰の仏像でした。人々は「龍が降臨する」と云われていた龍門ヶ嶽に庵を建て、この尊像を安置しました。あるとき、この地を訪れた行脚の僧が「この像は青面金剛明王である」と云い、以降、青面金剛明王として奉安するようになりました。寛治中(1087-1094年)僧海光が真言宗寺院として創立。文禄二年(1593年)横川太梅寺四世法山秀禅が再興して曹洞宗に改宗しています。

上り口に立派な札所標。すこしく昇ると石造の冠木門。正面に入母屋造桟瓦葺流れ向拝の堂宇、向拝柱と簡素な水引虹梁。

参道入口
石造の冠木門
入母屋造桟瓦葺流れ向拝の堂
向拝

一段高く青緑色の妻入りの宝形造桟瓦葺流れ向拝のお堂があります。

宝形造桟瓦葺流れ向拝のお堂
向拝
山号保月山(ほげつさん)
寺院名龍門院(りゅうもんいん)
宗派曹洞宗
本尊青面金剛明王
真言おん こうしんてい こうしんてい
まいとおり まいとおり そわか
住所下田市相玉38

第48番札所 報本寺

1323(元享3)年に富貴野山宝蔵院(第81番札所)に向かっていた真言宗成就院の阿闍梨が、風岩峠付近でこの地が霊地であると感じ、1326(嘉暦元)年3月に婆娑羅山神護寺として開堂しました。 しばらく無住の時期がありましたが、臨済宗として再興しました。

元享三年(1323年)、富貴野山宝蔵院(第81番札所)に向かっていた堀ノ内村の真言宗成就院の円願阿闍梨は、加増野村の風岩峠で濃霧のため道に迷いました。すると、白衣の老人があらわれ「吾はこの山を守護する明神である。この山は弘法大師の霊境で仏法有縁の地であり、一宇を建てれば功徳多かるべし。」と告げられて忽然と姿を消しました。

円願阿闍梨は歓喜して堂宇を建立し、嘉暦元年(1326年)成就院の観世音菩薩像を遷し御本尊として奉安、婆娑羅山神護寺と号して開山と伝わります。

「婆娑羅山はその昔弘法大師が婆娑羅三摩耶を修した霊場で仏法有縁の地として知られ、『婆娑羅山』の名もそれから出ている」とのことで、お大師さまゆかりの山域のようです。また、「親捨て」にまつわる伝承が残っています。

山門の下は踊り場になっていて、二段の石垣が組まれて城内の曲輪のようです。山門は切妻屋根桟瓦葺で大がかりな降り棟を置き、四脚門と思われます。境内前庭の枝垂桜は樹齢200年を越える。

文化年代(1804-1817年)の築と伝わる本堂は、寄棟造桟瓦葺で照りのきいた端正なつくり。
向拝柱はなく、格子戸がメインの構成。堂内、向拝見上げには山号扁額が掲げられていました。

門柱
参道
山門
境内
枝垂桜
向拝
扁額
山号婆娑羅山(ばさらさん)
寺院名報本寺(ほうほんじ)
宗派臨済宗(建長寺派)
本尊聖観世音菩薩
真言おん あろりきゃ そわか
住所下田市加増野433-1
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