吉(きち)は、天保12年(1841)、愛知県知多郡内海に船大工・市兵衛、母・きわの次女として生まれます。(幼少のころに下田に移り住む。)幼くして市兵衛を失ったきちは、下田に入港する船の船頭たちの洗濯女として生計を支えます。
吉(きち)の生涯は、幕末の動乱期に翻弄され流転した。幼い頃に下田に移り住んで、14歳で下田一の人気芸妓となったきちであるが、安政4年(1857年)に人生を決定付ける転機が訪れる。
吉(きち)が16才のとき、下田において米国総領事として着任していたハリスが、胃潰瘍で倒れたハリスとしては看護をしてくれる女性を希望したと言われるが、幕府はこれを愛妾の要求と解釈して日本側がこれを拒絶すると、条約談判が破談となる危機を迎えます。
あわてた日本側は、吉(きち)に白羽の矢を立てたのである。ハリスのもとに「吉(きち)」を。オランダ人通訳ヒュースケンのもとには経師屋平吉の娘「ふく」を仕えさせることとしました。
「きち」には支度金25両、年手当120両が報酬として、渡される約束となりました。(当時の大工の手間賃が1ヶ月で約2両程度だったといわれる。)
しかし、吉(きち)は三夜で暇が出され、玉泉寺通いは終わります。ハリスと共に江戸へ赴いた吉(きち)は、そこで職を解かれた直後に行方をくらました。
その理由は、吉(きち)がハリスの世話をしている最中に、腫れ物ができていたために、自宅療養を仰せつかった。全快後も玉泉寺でハリスに仕える機会はなかったようです。
解雇後のきちは、異国人の私的な身の回りの世話をしたという偏見や、その報酬の高さ(月給10両)からくる妬みのせいか、その後きちは下田の町で「唐人お吉」と呼ばれ、迫害を受けるようになるのである。
異人と交わったという偏見により、船頭たちの洗濯ができなくなり、暮らしに困り、下田領事館の閉鎖とともに、下田から姿を消します。
明治元年(1868)に横浜に現れ、かつて将来を誓い合った男と偶然再会して所帯を持つ。二人して下田に戻ったが、結局いさかいが絶えなくなって離縁。
明治15年に再び下田に戻り、小料理屋「安直楼」を営みますが、酒に溺れる自暴自棄の生活から、破産に追い込まれ、晩年は物乞いをする生活だったようです。
病気を患ったきち(きち)は、角栗の淵(かどくりのふち・現在のお吉が淵)に身を沈め、淵から引き揚げられた遺体は引き取り手もなく、菩提寺も埋葬を拒否したため、3日間もその土手に放置されたままだったという。
結局、宝福寺の住職が遺体を引き取り境内に埋葬したのである(これが現在の墓所)。死んでからまで下田の人々から嫌われ続けたきちであるが、彼女自身はこの土地を離れては戻ることを繰り返している。
それを考えると、「世をはかなんで」投身自殺したとされる最期も、もしかすると彼女の本意ではなかったような印象も出てくる。
明治24年(1891年)3月27日の豪雨の夜、一人の女性が下田街道沿いの稲生沢川の淵に身投げをした。その女性の名は斎藤きち。“唐人お吉”と呼ばれた女性である。