富士山須走口登山道の起点に鎮座する。宗教法人名称は冨士浅間神社(ふじせんげんじんじゃ)で、須走浅間神社(すばしりせんげんじんじゃ)とも称される。須走口登山道の起点となる神社です。
781年(天応元年)に富士山の噴火があり、甲斐国主の紀豊庭朝臣が占い、788年(延暦7年)この地に社殿を建立したのがはじまりといいます。
江戸時代に入り、富士講が盛んになると、信者が多く立ち寄るようになりました。
その中でも大きな団体であった村上講の村上光清師は 、1733年から1738年までの6年間、境内社殿の大造営を行いました。
現存する社殿と境内構成のほとんどはこの時のもので、廃仏毀釈により損失しても、現在もなお当時の荘厳な趣を伝えています。
駿河国と甲斐国を結ぶ交通の要所の須走村(現・小山町須走)に位置し、東口登山道(須走口登山道)の本宮です。
空海修行の地という伝説もあり、中世には弘法寺浅間宮と称し、須走口9合目の迎久須志之神社(江戸時代には薬師堂)、6合目・胎内神社、5合目・古御岳神社(4合目・御室浅間神社、2合目・雲霧神社を合祀)は末社です。
富士講の全盛時代には須走集落は、富士登山の宿場として繁栄しましたが、その中心となったのが浅間神社(神仏習合時代には弘法寺浅間宮)です。
宝永4年(1707年)の宝永大噴火によって須走村がほぼ全壊全焼という壊滅的な打撃を受け、神社も倒壊した。
現存する本殿・幣殿・拝殿が一体となった権現造りの社殿、随神門は、宝永噴火直後の再建された。
境内には浅間の杜、富士講の講碑群、信しげの滝などもあり凛とした環境が守られています。