けんか祭りと言われるこの祭りは毎年11月の第1金曜日、土曜日、日曜日に行われます。豪華な装飾を施した二輪の14台の屋台を狭い町内を引き回します。屋台が行き交い、大勢の人たちが激しい練りをすることで知られています。
三島神社の祭礼がいつごろから現在のような様式で行われるようになったかは明らかではない。2日目の神輿渡御、3日目の神輿還御、舞児還しは一見の価値があります。
三嶋神社と金守神社の祭礼ですが、谷本神社、天方神社、森川稲荷社の祭礼も合わせて行われています。夏に行われる天宮神社の氏子も合わせて14町が参加する祭礼です。
1日目
祭り開始宣言式、各町内屋台曳き廻し、全屋台城下集結、町の中心部にて夜祭り・練り
2日目
三島神社・谷本神社本祭、神輿渡御(三島神社→金守神社)、町の中心部にて夜祭り・練り
三嶋神社から金守神社まで御神輿の渡御(御渡り)が行われます。御神輿のあとに14台の屋台が続きます。
3日目
天方神社本祭、神輿還御(金守神社→三島神社)、稲荷社本祭、舞児還し、町の中心部にて夜祭り・練り
薄暗くなると、各社の屋台が三嶋神社に集まってきます。夕方6時から各社の舞児を自宅に送り届ける舞児返しが始まります。
名前を呼ばれると、拝殿に入り万歳三唱をします。
森のまつり」の舞楽は比較的新しい行事であるため、遠江森町の舞楽には含まれていない。
森のまつりには3種の舞楽があり、毎年各町から1名ずつ選ばれた舞児によって、乙女の舞(女舞)浦安の舞(女舞)朝日の舞(男舞)が奉納される。
舞児(まいこ)還し
森のまつりの舞楽を奉納する子供を「舞児(まいこ)」と呼ぶ。舞児は毎年各町から1名ずつ選ばれる。
舞児に選ばれた子供の家では舞児の名前と奉納する舞を大書する看板が立ち、祭りの風物詩ともなっている。
舞児の家では実際に舞楽を奉納する役を担うことなどから、舞児に選出された名誉の要素が強い。
舞児に選ばれると、祭典の最終日は神社から自宅までの帰り道を歩かずに町の若衆が屋台と肩車で送ってゆく。これを「舞児還し」と言う。
舞児還しは1924年(大正13年)、乙女の舞の奉納の際に三島神社の宮司が考案したものとされている。
屋台祭り
森町の祭り屋台は、遠州独特の二輪屋台である。俗に「御所車型」と言われるが、実際の牛車と異なり、屋上には跳高欄で囲まれた「浜床」があり、屋上に山車人形が飾られている。
他の二輪屋台の祭りの地域と異なり、漆塗りの屋台が多いことも特徴である。これは森の祭りに限らず森町一帯の祭り屋台に共通する特徴で、森町南部の飯田地区までほとんどが漆塗りである。
森の祭りは「喧嘩祭り」の通称があるとおり、荒祭りとしても知られる。
喧嘩祭りと呼ばれるようになった起源とされるのが1863年(文久3年)の「文久の大喧嘩」である。
この喧嘩は三島神社の祭礼当日に秋葉神社の使者が森町の町内を通った際、使者に屋台を壊されたことから、本町と屋台を壊された下川原町との間で起きた騒動である。
これにより三島神社の祭りは明治初期まで中止されることになった。
それだけでなく森の祭りは遠州地方のなかでももっとも激しい祭りとしても知られれる。
昭和40年代までは数年に一度の割で祭典期間中の暴力事件が起こり、1973年(昭和48年)には2日連続で死者の出る事故まで発生した。警察により「屋台曳き廻し中止」の勧告を招く事態となった。
この暴力事件を重く見た各町の役員や祭典本部は、1974年(昭和49年)に祭りの大改革に着手「絶対無事故で祭典を行う」ことを宣言した。
各町の会所で「絶対無事故」の掛け軸を掛け、「モラルの向上・喧嘩の防止」を呼びかけている。
それ以降祭りのモラルは飛躍的に向上し、「荒々しくも規律・統制の取れた祭り」として知られるようになってきている。