人穴富士講遺跡は、人穴浅間神社の境内にある。ここには、犬涼み山溶岩流内にできた長さ約83メートルの溶岩洞穴「人穴」と富士講講員が建立した200基を超える碑塔等がある。
また、ここには、甲州街道や山梨県郡内地方に通じる郡内道(人穴道)が通っていた。
『吾妻鏡』には人穴探検の様子が描かれている。
この人穴探検談は、後に浅間大菩薩の霊験譚「人穴草子」としてまとめられ、近世には富士講の隆盛もあり広く普及した。
また、『吾妻鏡』には、人穴は「浅間大菩薩の御在所」とあり、当時人穴が富士山信仰に関係する場所であったことがうかがえる。
富士講の資料によると、江戸の富士講の開祖長谷川角行は、人穴に篭って修行し、仙元大日神の啓示を得たとされる。
角行の教えは、江戸時代中期以降、江戸を中心に広まり、数多くの富士講が組まれた。
また、角行は人穴で亡くなったとされ、人穴は富士講の浄土(浄土門)とされた。
このため、人穴は角行の修業の地・入滅の地や仙元大日神のいる場所として信仰を集め、参詣や修行のために人穴を訪れる講員も多く、人穴は先達の供養碑や記念碑などの碑塔を建立することも多く行われた。
また、近世、人穴には、光きゅう寺(大日堂)があったとされる。
光きゅう寺は修行者の世話をする施設だと考えられており、赤池家が管理していたとされる。
赤池家は、この他、溶岩洞穴「人穴」やその周辺を管理し、参詣者の案内や修行者の世話、お札・御朱印の授与、碑塔建立の世話等を行っていた。
明治初年の神仏分離令・廃仏毀釈により、光きゅう寺(大日堂)は廃され、人穴浅間神社が置かれた。昭和17年(1942)には付近が軍用地として接収されたため周辺住民とともに人穴浅間神社は移転し、昭和29年(1954)現在地に復興した。
なお、富士講の衰退もあり、碑塔の建立は昭和39年(1964)以降行われていない。
人穴洞穴
洞穴内には、祠と碑塔3基と石仏4基が建立されている。
洞穴は、南西の端が進入口となり、洞穴中央部でくの字型に曲がっている。
入口から約20mの位置に祠が、30mの屈曲部手前中央には直径約5mの溶岩柱がある。最奥部までは約80mで、そのまま閉塞していると考えられている。
碑塔群
人穴浅間神社の境内地には、富士講信者が建立した232基の碑塔が存在する。
18世紀中頃から、江戸を中心に富士講が隆盛すると、人穴は霊地(西の浄土)として信仰されるようになり、18世紀末以降、現在の東京都・埼玉県・千葉県を中心とした関東地方の富士講信者によって「墓碑供養碑」「祈願奉納碑」「顕彰記念碑」などが建立された。
講(枝講)ごとにまとまって建立されており、刻銘から、各講の歴史や構成地域を知ることができる。
人穴浅間神社
かつては「光侎寺(こうきゅうじ)大日堂」があったとされるが、神仏分離令を受けて廃され、「人穴浅間神社」が置かれた。
昭和17年(1942)に少年戦車兵学校の開校に伴い地区の山野が演習地となり浅間神社も移転したが、昭和29年に復興された。現在の社殿は平成13年に建立されたものである。