三保松原は、『芸術の源泉』としての富士山の普遍的価値を証明する上で欠かすことのできない世界文化遺産の構成資産です。
その範囲は、海外にも著名な芸術作品の視点場や舞台として重要な要素となった砂浜と松林の全体を含んだ64.4ヘクタールです。
三保に白龍(はくりょう)という名の漁師がいました。今朝も三保の松原で釣をしておりました。どこからともなく、えもいわれぬ良い香りがしてきました。
香りに惹かれて行ってみると一本の松に見たこともない、美しい衣が掛かって風に揺れていました。白龍はふと思いました。
「返すかわりに天人の舞を舞って下さい。」天女は喜んで承知しましたが
「羽衣がないと舞が舞えません。まず羽衣を返して下さい。」と言うのです。
羽衣を返せば舞を舞わずに帰ってしまうのではないか。すると天女はきっぱりと答えました。
「疑いや偽りは人間の世界のことで天上の世界にはございません。」
この言葉に白龍は自分がすっかり恥ずかしくなりました。三保松原を舞台とする羽衣伝説は、15世紀に作られたといわれる謡曲「羽衣」によって一躍有名になりました。
富士山と関わりがあるとされる天女と地元の漁師との交流を描いた羽衣伝説で有名な「羽衣の松」
羽衣伝説で天女が衣を掛けたと伝わる羽衣の松は、本来、海の彼方から来臨する常世神の憑代(よりしろ=目印)の役目を果たしています。現在も、2月14日の夜に行われる神事において、羽衣の松は神の降り立つ地となっています。羽衣の松周辺から見る砂浜、海岸に打ち寄せる清らかな白波、そして海の彼方へと続く景観は、日本の海辺の原風景といえます。
羽衣の松を御神木とする「御穂(みほ)神社」
三保の中心に鎮座する御穂神社(祭神は大己貴命と三穂津姫命)は、平安時代の書物『延喜式神名帳』にも記録のある由緒ある神社で、朝廷や源氏、今川氏、武田氏、豊臣氏、徳川氏の武将に篤く崇敬されました。特に徳川幕府は、慶長年間(1596-1615)に壮大な社殿群を造営寄進しましたが寛文8年(1668)の落雷により焼失しました。
松と神社の間の松並木「神の道」
羽衣の松に来臨した神は、約500mの松並木、通称「神の道」を経て御穂神社に迎えられます。樹齢200~400年といわれる老松に囲まれた厳かな松並木を歩くと、心が洗われるような感覚を得ることができます。