祭典は毎年10月中旬に行われますが、寅、巳、申、亥の年ごと、満3年に1度「大祭(おおまつり)」といって御神輿のお渡りの神事がおこなわれます。
この大祭りの神事と余興(神社では「神賑(かみにぎわい)」といいます)が「帯まつり」として全国に知られるようになりました。
3年に1度ということもあって、島田の人たちの大祭りに対する力の入れ様は相当なもので、たとえば祭りのあいだ着用する法被ひとつ取っても、裏地の刺しゅうに3年間(約100万円)かけて密かに心意気を競いあったなんてうわさも飛び交います。
元禄8年(1695年)から、元のご社地へ御神輿のお渡りが行われることになり、当時の代官がお祭りの時だけは無礼講を許した為、このお渡りの警護の行列がやがて10万石の格式を持つ大名行列へと発展しました。
新婦が嫁入りの丸帯を持って町中全戸に挨拶回りをする風習があり、安産の守護神として信仰のあった大井神社の御神輿の行列である大奴の大太刀(おおたち)にその帯を下げて披露するようになったそうです。
『奇祭』と呼ばれるのは、大奴のしぐさが奇妙だからとか…。御神輿の前を歩きながらお祓いをしているのだそうです。大奴の所作は、足の上げ方、高さ、指先の動きにいたるまで厳格に今に伝えられている。
鹿島踊りは、大井神社が今のご社地にお遷しされているころ、町に流行った疫病を鎮めるためにお祀りした春日神社と一緒に伝わったもので、御神輿のお渡行が行われるようになると一緒にお供するようになりました。鹿島踊りの伝わる地域としては西限となるとも云われてます。
屋台は屋根の上で大声を出して操縦する屋根屋と、大きな棒を持って屋台の車輪や骨組みにあてがって実際に屋台の向きを変えたり、動いたり止めたりする梃子屋、そして、動力源にあたる綱(ロ-プ)でそれを動かしています。
大祭りには江戸時代から伝えられるいくつかのル-ルがあります。各青年本部の間では、祭りの3日間は電話を使わず、伝令係と応接係がその連絡を担当します。祭りの間、伝言を託されて全速力で町を走り回る伝令青年をきっと一度はご覧になれると思います。