遠州大念仏

遠州地方夏の風物詩として知られている遠州大念仏は、浜松市を中心に盆の3日間に行われる郷土芸能です。

遠州大念仏

初盆の供養の依頼を受けた家を訪問し、大念仏を演じ、供養を行います。大念仏の一行は笛、太鼓、鉦、歌い手など、およそ30人で隊列を組み、頭先の提灯を先頭にして、笛・太鼓・鉦の音に合わせて行進しながら、初盆を迎えた家を訪れます。

大念仏の一行が初盆を迎えた家の庭先に入ると、太鼓を中心にして、その後方に双盤を置きます。そして、音頭取りに合わせて念仏や歌枕を唱和、太鼓を勇ましく踊るようにして打ち鳴らし、初盆の家の供養を行います。

通説としては徳川家康75年の生涯の中で、唯一の負け戦として有名な「三方原合戦」にさかのぼります。

三方原古戦場
三方原合戦

元亀3年(1572年)、京を目指す武田信玄の軍と、織田信長からの援軍、徳川家康の軍が、三方原の台地で、死力を尽くした攻防戦を繰り広げました。

徳川勢はついに崩れ、浜松城に逃げ帰りました。家康が百戦錬磨の武田信玄を相手に刀折れ矢尽きた戦いでした。

鉄砲
浜松城

追撃してきた武田勢は犀ヶ崖付近で夜営をすることになりました。浜松城に逃げ込んだ家康は、一矢報いようと考え反撃に転じ、犀ヶ崖付近に野営中の武田軍を夜襲しました。武田軍を谷底へ追い落とし多数の死傷者を出し損害を与えました。(犀ヶ崖の戦い)

犀ヶ崖
犀ヶ崖古戦場

「天正2年5月、降り続く雨の夜、犀ヶ崖(さいががけ)において刃の音や鬨の声・わめき叫ぶ声が現出した。その、悲しい有様は耳や目を覆いたくなるほどであった。

崖の付近を行き来する人たちが、しばしば「かまいたち」の難にあい、近辺の村々には「いなご」の大軍が発生して農作物を食い荒らした。さらには流行病が蔓延して、戸毎に病人が続出するようになった。

世の中では犀ヶ崖(さいががけ)の戦死者の祟りではないかという流言乱れ飛び、領民はこの一大恐慌に恐れ大騒ぎとなった。城主家康は、いわれを聞き哀れみ、深く心を痛め、貞誉了傳に怨霊済度災厄消滅の修法を懇請する。

了傳は、犀ヶ崖(さいががけ)に青雲庵という庵をつくり、数多の道俗集めて大施餓鬼を行った。7日7夜の別時念仏をとなえ、6万枚の名号を書いて谷間に納めた。満願の暁に至り祈願がかなえられ、亡魂得脱して鎮まり、疫病や害虫も消滅した。

犀ヶ崖(さいががけ
犀ヶ崖資料館(青雲庵跡)

家康は「この度の怨霊済度は、武門の戦功にも勝る。法力の功を永世に伝えよ」と云って、領民に毎年7月13日から15日まで怠りなく大念仏(大声で阿彌陀の名をとなえること)を行うように布告した。

天正14年了傳は、駿河に移ることになり、法徒宗圓がこれを継ぎ、青雲庵に住み、大念仏の普及に勤めた。

遠州大念仏は、三方ヶ原の戦い、犀ヶ崖の戦いで犠牲となった人を弔うために始まり、武田勢兵士の鎮魂のために迎え入られた宗円僧侶の下、行われるようになった行事です。 

犀ヶ崖は、徳川家康と武田信玄が戦った三方原古戦場。犀ヶ崖資料館は三方原合戦による死者の霊をまつった宗円堂というお堂でした。

遠州大念仏は、郷土芸能です。

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