第49番札所 太梅寺

1046(寛徳3)年に行脚中の真言宗の僧が、この地に至った際に求めていた霊地だと感じ、人々から浄財を集めお堂を建てました。 明星山満珠寺と名づけ、地蔵尊を本尊として奉りました。 寺院の裏山には寺の鎮守として、稲荷神社が勧請されました。 後に寺名を改めて太梅山深居庵とし、臨済宗に改宗しました。

更にその後の1557(弘治3)年には曹洞宗に改宗し寺院名は深居山太梅寺となり、1852(嘉永5)年に現在の山号に変わったと伝えられています。

寛徳三年(1046年)、弘法大師の法孫・桓舜僧都がこの地に行脚の折、霊夢にひとりの童子があらわれて「此地末世仏法興隆の勝境なれば、ここに一宇を建て法灯を永く伝えて光明世間を照さば利益広大なり」と云った。
この地はまさに桓舜僧都の求めていた霊地の地勢でもあったため、歓喜して近在の村人から勧募しこの地に草庵を結びました。この童子は東方の明星(の化身)と伝わります。

県道側の寺号標から境内までかなりの距離があり、名刹であることがわかります。参道入口に冠木門。その先に杉木立の下、苔むした石段が伸びています。山門は切妻屋根瓦葺、がっしりとした朱塗りの四脚門の山号扁額が掲げられています。本堂は寄棟造桟瓦葺で向拝柱はなく、
向拝見上げに寺号扁額を掲げています。

参道入口
冠木門
山門
山門の扁額
山内
鐘楼
向拝
寺号扁額
山号神護山(しんごさん)
寺院名太梅寺(たいばいじ)
宗派曹洞宗
本尊地蔵菩薩
真言おん かかかび さんまえい そわか
住所下田市横川342

第50番札所 玄通寺

かつては下田市との境にある小松野山の頂にありましたが、何度もの火災に遭い記録が焼失しているため、創建年等は一切不詳となっています。 しかし開山の玄翁心昭が1396(応永3)年に入寂していることから、草創はそれ以前と考えられます。 1911(明治44)年に庫裏が、翌年に本堂が現在地に移されました。

寺伝によると当初は下田寄りの小松野山の頂上にありましたが、数度の火災で記録を失い創建等は不詳となっています。開山は玄翁心昭(源翁心照空外)。應永三年(1396年)の入寂につき草創はそれ以前とみられています。玄翁心昭は那須野が原の殺生石を破砕して妖事を止められたと記されています。慶長・元和の頃(1596-1624年)、鶴翁和尚により再興。明治44年(1911年)に庫裏、翌年には本堂が現在地に移されています。

本堂は寄棟造銅板葺で向拝柱のないすっきりとしたつくり。当寺には江戸後期~明治時代作の木像「鳥抱き猿像」が伝わり、「その姿には災いや病を『取り(鳥)去る(猿』という意味が込められている可能性があります。」とのこと。

六地蔵と参道入口
本堂
向拝
鳥抱き猿像
山号古松山(こまつざん)
寺院名玄通寺(げんつうじ)
宗派曹洞宗
本尊観世音菩薩
真言おん あろりきゃ そわか
住所賀茂郡南伊豆町一條456

第51番札所 龍雲寺

1284(宝治2)年に真言宗の寺院として創建されました。 永禄年間(1558~1570年)に曹洞宗に改宗となりました。

現地掲示の寺伝などによると、鎌倉時代の宝治二年(1284年)に青市地内別当向丘に真言宗の寺院として創建。永禄十二年(1569年)、下田曹洞院三世了堂和尚により再興し曹洞宗に改宗されています。その後、火災により焼失したのち、天文五年(1740年)に当山裏山の地に新築移転。暴風により倒壊したため文化二年(1805年)、現在地に本堂などを新築しています。

本堂は寄棟造銅板葺。海鼠壁とその上に端正な花頭窓を置いて、
正面格子扉のうえに山号扁額をおいています。

山内入口
山内
向拝
山号扁額
山号青谷山(せいこくざん)
寺院名龍雲寺(りゅううんじ)
宗派曹洞宗
本尊釈迦牟尼如来
真言のうまくさんまんだ ぼだなん ばく
住所賀茂郡南伊豆町青市143

第52番札所 曹洞院

幾度かの火災のため記録が焼失してしまっていて、詳細な沿革は不明となっています。 かつては弘法大師修行の霊蹟で大師山とも言われる真言宗の大刹でした。 戦乱で焼失した後、1525(大永5)年に七堂伽藍を再建、その際に曹洞宗へと改宗しました。1593(文禄2)年に山火事で類焼しましたが、1596(慶長元)年に再建されています。

幾度の火災で記録を失い沿革は不明ですが、かつては弘法大師修行の霊蹟で大師山(永禅庵)と号し、末寺十数箇寺を擁した真言宗の大刹と伝わります。(のちに少林山と改号)

弘法大師が御巡錫の折に秘法を修された曹洞院は、もとは下田市大賀茂林山にありました。弘法大師が修法中に裏山で錫を立てられると、清列な水が湧き出たのでこの水を硯にとられて経を浄書されたので「弘法大師の御墨水」「金剛浄水」とも呼ばれています。

天文元年(1532年)、中村民部少輔宗賢は相州・海沢、新井の二城に拠って三浦道寸と戦いましたが破れ、大賀茂の曹洞院に逃れてこれを再興して開基となりました。

宗賢遺物の太刀、鎗、兜、鎧、轡などが曹洞院に所蔵されているそうです。なお「三浦道寸」は、ふつう相模国守護の三浦義同(1451-1516年)を指すようです。

中村宗賢による再建は大永五年(1525年)で、このときに香雲寺の能庵宗為を請して曹洞宗へ改宗、慶長元年(1596年)、開基宗賢の嫡子・兵部宗尊が堂宇を再建という説もあります。

山門は切妻屋根の四脚門で、以前は茅葺でしたが現在は桟瓦葺となっています。
延宝九年(1681年)建立の棟札が残ります。江戸時代初期の様式を残すとされ、彫刻は左甚五郎作とも伝わります。

天保十二年(1841年)火災により堂字什宝を失いましたが、山門は類焼を免れ往時の面影をとどめるといいます。山門に立ち手を打つと、裏山より鶯の鳴き声に似た応えがあるので「鶯門」とも呼ばれます。山門には山号扁額が掲げられ、その手前には札所標があります。

数段の階段をのぼった先に、花緑青色の鮮やかな屋根が葺かれた本堂。入母屋造銅板葺で向拝柱はありませんが、向拝屋根が付設されています。

参道入口
山門
山内
山門扁額
向拝
山号少林山(しょうりんざん)
寺院名曹洞院(そうとういん)
宗派曹洞宗
本尊大日如来
真言おん あびらうんけん ばざら だとばん
住所下田市大賀茂89

第53番札所 寶徳院

858(天安2)年、中国の長安にある青龍寺で学んだ僧が帰国する際、千体仏を積んだ船で遭難し、吉佐美の浜に打ち上げられました。 その千体仏を安置するために立てた庵が寺の始まりと伝えられています。 源頼朝が崇敬したという本尊の不動明王も、この千体仏の一体と云われています。

三島の第17番(泉福寺)以来の不動明王の札所です。こちらも比較的規模の大きな寺院で、草創は貞観年中(859-877年)と伝わります。治承四年(1180年)、源頼朝公が武衛七人を連れて当院に立ち寄ったとき、砂鉄で茶釜をつくり薬湯を点じて病人に飲ませたところ、たちどころに病が癒えたと伝わります。こういう奇瑞もあってか頼朝公の御本尊の不動明王への尊崇は篤く、後世も伊豆一円の人々の信仰を集めたと伝わります。

吉佐美の集落の山側にあり、本堂は入母屋造桟瓦葺妻入りで、向拝柱を置いています。向拝格子扉のうえに山号扁額。堂内は妻入り、不動尊の堂宇です。通称”ホトケ岩”には三十三観音、十六羅漢、金比羅堂などが安置され山内霊場(佛谷山)となっています。

参道入口
本堂
山号扁額
山内霊場(佛谷山)の参道
山号佛谷山(ぶっこくさん)
寺院名寶徳院(ほうとくいん)
宗派曹洞宗
本尊不動明王
真言のうまくさんまんだ ばざら だん
せんだま かろしゃだ そわたや うんたらた かんまん
住所下田市吉佐美1667

第54番札所 長谷寺

天平年間(729~749年)に行基によって開創されたと伝えられています。 元は真言宗古義派に属し、西老山昌善寺と称しましたが、1545(天文14)年に現在の浦岳山長谷寺と改称しました。 1655(明暦元)年に曹洞宗に改宗しました。

天平年間(729-749年)、行基菩薩の開創と伝わる古刹で、もとは真言宗古義派に属し、西老山昌善寺と称しました。天文十四年(1545年)に現在の浦岳山長谷寺に号を改め、明暦元年(1655年)、曹洞院九世来室栄撮を請じて曹洞宗に改宗しました。

石垣に堀割の参道階段。階段のぼり口には「国指定 重要文化財 木像阿弥陀如来坐像」の標識が建っています。山内はこぢんまりとして、すぐ正面が本堂です。入母屋造銅板葺で、向拝柱と屋根を付設しています。屋根の勾配が緩く、ちょっと変わった堂宇です。簡素な水引虹梁。向拝柱には札所板が掲げられています。

参道入口
本堂
向拝
向拝柱には札所板
山号浦岳山(ほがくさん)
寺院名長谷寺(ちょうこくじ)
宗派曹洞宗
本尊阿弥陀如来
真言おん あみりた ていせい から うん
住所下田市田牛156

第55番札所 修福寺

奈良県奈良市の大安寺の別院として開創された石門寺という寺院でした。 所在地は開創時は南伊豆町青市に、その後手石、現在地である湊と変遷しました。 その際、名を飯盛山修福寺と改め、曹洞宗に改宗しました。

「当初大和の国大安寺の支院として開創。(大安寺は現在は真言宗だが以前は(南都六宗の一つ)三論宗で大安寺流の寺として知れわたっていた。)」とのこと。

当初は南伊豆町青市の大寺山にあって石門寺と号し、後に手石から現在地に移転しています。手石から現在地へは天文十三年(1544年)寂用栄順和尚が移され、師の香雲寺四世実堂宗梅を開山として請じ、その折に寺名と宗旨を改めたといいます。

所蔵の「紙本墨書大般若経」は大治五年(1130年)国司(大江)通国、源盛賴等の奥書があり、国の重要文化財に指定されています。

木立の茂る石段をのぼっていきます。石段手前には寺号標と札所標。伊豆横道三十三観音霊場の札所でもあるので、併記された札所標です。正面に本堂。左手に収蔵庫、右手に庫裡。本堂は寄棟造桟瓦葺で向拝柱のない構成です。本堂内見上げに「瑠璃殿」の扁額

参道入口
六地蔵と参道
向拝
扁額
山号飯盛山(いいもりさん)
寺院名修福寺(しゅうふくじ)
宗派曹洞宗
本尊薬師如来
真言おん ころころ せんだり まとうぎ そわか
住所賀茂郡南伊豆町湊662

第56番札所 正善寺

古くは真言宗の寺院で詳善寺と称していました。 寛永年間(1624~1644年)に修福寺五世嶺屋秀雪が開山となって曹洞宗に改宗し、現在に至ります。

御本尊の木造伝大日如来坐像は運慶作とも伝わり、桧材、寄木造、彩色及び古色、玉眼嵌入 鎌倉時代 鎌倉時代前期の檜材寄木造。台座に付いていた銘札によれば、元久2(1205)年、大仏師雲慶作の大日如来と伝えられている。

青野川沿いにある禅刹です。青野川河岸から伸びる参道脇には石仏が並んでいます。本堂は入母屋造桟瓦葺、向拝柱のない堂前で扁額もありません。

参道
山内
本堂
向拝
山号養珠山(ようじゅざん)
寺院名正善寺(しょうぜんじ)
宗派曹洞宗
本尊大日如来
真言おん あびらうんけん ばざら だとばん
住所賀茂郡南伊豆町手石165

第57番札所 青龍寺

享保初期の火災で記録の一切が焼失しているため詳細は不明であるが、1225(嘉禄元)年開創と伝えられています。 現在の本堂は1720(享保5)年に建てられたものです。

寺伝には嘉禄元年(1225年)の開創とありますが、享保(1716-1736年)初期の火災で記録一切を焼失しているため詳細は不明とされてます。佛印禅師(應永四年(1397年)寂)を開山として再興しています。現在の本堂は享保五年(1720年)築と伝わってます。

寺宝として白隠禅師直筆の「宝鏡窟の記」が所蔵されています。青野川の流れにほど近いところにあります。参道入口に自然石の寺号標。そこから山門に向かってまっすぐに参道が伸びています。山門は切妻屋根本瓦葺の風格ある四脚門。本堂は寄棟造銅板葺流れ向拝。水引虹梁と身舎側に海老虹梁、中備に本蟇股をおいています。

参道
山門
本堂
向拝
山号東海山(とうかいさん)
寺院名青龍寺(せいりゅうじ)
宗派臨済宗(建長寺派)
本尊如意輪観世音菩薩
真言おん ばらだ はんどめい うん
住所賀茂郡南伊豆町手石329

第58番札所 正眼寺

1351(北朝暦観応5)年に真際によって開かれた臨済宗の寺院です。 至近の長津呂港は江戸時代に賑わい、近くにあった建長寺派の守源寺が栄えたのに対し、正眼寺が衰退していたのを獲麟が再興したと伝えられています。 1890(明治23)年に守源寺は災害により廃寺となり、正眼寺に併合されました。

正観應二年(1351年)真際によって開かれた臨済宗の寺院。正眼寺は一時衰退したものの、享保十八年(1733年)僧獲麟によって再興。海事を司り、一時は正眼寺を凌ぐ繁栄をみせたという石廊崎の守源寺は、明治23年(1890年)の災害によって廃寺となり正眼寺に併合されています。

長津山守眼寺は「長津呂村 臨済宗建長寺派 相州鎌倉建長寺末 本尊釋迦 今作守眼寺 開山蔵海和尚(應永十八年(1411年)取滅) 寺内有天神祠 明治廿三年廃寺トナリ 本尊ハ同村正眼寺ニ併ス」とあります。

長津呂港は良港で江戸時代に賑わい、享保年間(1716-1735年)には停泊する船は八十余隻に及び、戸数も七十五を数えたといいます。

石段を登り切ると正面に本堂、右手が庫裡です。本堂は入母屋造桟瓦葺の妻入り、向拝は水引虹梁両端に雲形の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に海老虹梁、中備に本蟇股。正面妻部には整った経の巻獅子口を備えています。本堂天井は折上げ天井様になっていて、中央には龍の天井絵。

山内入口
山内
本堂天井は折上げ天井様
向拝
山号稲荷山(いなりさん)
寺院名正眼寺(しょうげんじ)
宗派臨済宗(建長寺派)
本尊観世音菩薩
真言おん あろりきゃ そわか
住所賀茂郡南伊豆町石廊崎18
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